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「メディアは、子ども達に影響を与えてきたのだろうか?」
子ども調査研究所 主任研究員 近藤純夫氏インタビュー

カテゴリー: 情報モラル・リテラシー教育 / 子どもの利用実態

道具は使い方次第!そんなの当たり前。

「インターネットは子どもに影響なんて与えていません」子ども調査研究所 主任研究員 近藤純夫氏ははっきりと言う。時代の流れとともに卒業しないで大人になる社会の中で、便利な道具を持つ子どもに、大人が教えなくてはいけない事は何だろうか?

近藤純夫氏
1943年東京生まれ。東京大学教育学部卒業後、同大大学院博士課程中退。教育社会学専攻。1967年まで、川崎市立御幸中学校講師。1970年より、子ども調査研究所にて、幼児・子ども・若者対象の調査・研究に従事。インタビューは年間100グループ以上。最近は、アメリカ、アフリカなど、海外の子ども事情にも関心をもって取材を行っている。現在、同研究所主任研究員。
主な著書に、『子どもがいる』(教育出版)、『近頃子ども事情:(筑摩書房)、『子どもの遊び』(金子書房=共著)、『楽園(ペポニ)...ケニア人から日本人へのメッセージ』(PHP研究所=P.オルワとの共著)など

子どもと携帯電話、インターネットメディアに関しては、現在、様々な議論がなされている。これまでもテレビやゲームなど子どもとメディアの関係が注目され た時代があった。子どもを対象とし、長年調査を行ってきた子ども調査研究所主任研究員の近藤純生氏に、社団法人日本インターネットプロバイダー協会事務局 長亀田武嗣氏がインタビューを行った。

久しぶりに会った近藤さん、以前と変わらずぶっ飛んだファッションだった。腰が痛いと言いながらも、こちらの稚拙な質問を丁寧に受け止めてくれた。

—メディアは、子ども達に影響を与えてきたのだろうか?今回の取材で一番話を訊きたかったテーマ。「メディアと影響」、まずこのテーマを近藤さんに訊いてみた。

近藤:10年ぐらい前に 日本性教育協会の調査協力の依頼があってね、当時はいかがわしいマンガが氾濫しているから性犯罪が増加したと言われていたんだ。巷の大人達は、そんなマンガは取り締まるべきだと騒いでね。セックスや大人の常識を逸脱した若者風俗をテーマにしたマンガを、子どもの頃から見せたら大変なことになるからって。性犯罪はそういうマンガが影響するから増えたのだとね。でもね、そんなの調査するまでもなく、関係は、なかったの。

考え方として、「こういうものがあるから、子どもがどうのこうの」という理論は、子どもが言うのではなく、大人が言うことでしょう。「劣情を催す」、「子どもにこんなものを与えたら大変だ」とか。大人は自分の発想で考えるからね。エッチなマンガを見て、こんなの子どもにみせたら、やりたくなっちゃうだろうって、思うわけ。ベッドがあったらやりたくなるなんて、大人だけの発想だもの。子どもはそんなこと考えないよ。

新しいメディアに接して驚く大人と、すぐに受け入れる子どもの考えることは、常に違う。

だいたいメディアって、影響を与えるものじゃないよね。メディアって通り道だもん。そのメディアによって何を得るのか?メディアによって何を伝えるのか?何が伝わるのか?それが問題だから。

—いきなり軽くはずされた。確かにそうなのだ。メディア、メディアン、中間。人と人の間に介在するのがメディアだから。

でも、子どもは、何かに影響されているはず。いいにつけ、悪いにつけ、様々なことを身につけて成長している。それは?

近藤:子どもは、何にでも影響を与えられたいものなの。赤ちゃんは何も知らない、そこから始まり、知ることによって大人になっていく。でも子どもは興味の有ることは身につけるけど、興味のない事は身に付けない。

それが社会化(Socialization)と呼ばれているものだよね。 社会の一員になるために、ものを身につけていくこと。これは教わらなくても、身につけていく。

もうひとつ教育ってのがあるでしょう。教育(education)は、大人が次の世代に影響を与えるために、プログラムを組んで意図的に教えること。だから、教えていいこと(教えたいこと)と、教えてはいけないこと(知らせたくないこと)がある。これはあくまでも大人(伝える側)の都合で伝達していく作業なわけ。

世の中で生きていく子ども達は、社会の一員になるために、学校教育に接する前から社会化されていく。自分にとって必要なことはどんどん身につけていく。教育は、これは伝えたくない、これは伝えたいと、国や家庭が決めているものだよね。学校の授業がそんなに好きな子どもばかりじゃない。むしろ嫌いな子どもの方が多いでしょう。先生がいくら、これは大切なことだから覚えなさいと一生懸命教えても、興味の無いことは、身につけない。小学校や中学校で教えられたことを全て身につけている子どもは、皆無に等しいと思う。分母の違う分数の計算なんて、大人になって一度もしたことないよ。

しかし、大人が「絶対に危険だ、興味を持ってはいけない、それは子どもには早い・・」と、子どもに注意する、たとえばエッチな情報なんかに関して、子ども達は既に知っているんだよね。だって、それは興味があるから。

よい子の遊び場なんて、ちっとも面白くないでしょう。ブランコや滑り台なんて幼児の遊び道具だものね。柵で囲まれて、「入るな!危険!」と書いてある場所に、こっそり入って遊ぶのが面白いんだから。それは昔も今も変わらないでしょう。

「こういうものを子どもに与えるから、こういう影響が出てくる」

「子ども達をこのように教育しなくてはいけない」という発想は、子どもと社会を間違って見ていると思うんだ。

子どもを取り巻く社会、環境が、子どもが身につけるべきものを用意する。その中で子どもは、自ら身につけるものを選択して成長していく。
「なになにの影響は・・・」という言葉は、何かを教えるときに、このカリキュラムと、あのカリキュラムとを比較して、どちらがいい影響を与えるのかという事でしょう。「いい影響」というのも、大人にとって好ましい影響って意味だよね。

だからインターネットがどのような影響を子どもに与えるかって聞かれたら、インターネットは子どもに影響なんて与えていませんと答えるしかないよ。インターネットはメディアなのだから。

—自分が子どもだった時、どうだったか?親が隠そうとしている情報は、何故か、どこからか手に入れていた。誰かが入手した情報が、口コミで伝わってきた。そしてそんな情報を誰かに伝えていた。そしてそれが親にばれた時、怒られた。学校で先生にげんこつを喰らった。

子どもに携帯電話を持たせると、ろくな事がない。危険にさらされる。だから携帯電話を子どもから取り上げよう。そんな考えや動きがある。 それってどうなの?

近藤:メディアは道具だから、子どもがメディアを利用して犯罪を起こすことは、そりゃあるでしょう。 でもそれって、ナイフと同じだよ。ナイフという道具が有れば、そのナイフで人を刺すかも知れないってこと。

昭和35年(1960)、当時の社会党委員長、浅沼稲二郎氏が山口二矢(やまぐちおとや)に刺殺されたテロ事件があったでしょう。あの時、刃物の問題が持ち上がった。山口二矢は当時17歳、未成年だったんだね。その時の世論は、未成年者の身の回りに刃物が溢れているから、簡単に手にはいるからこのような事件が起きるのだとなったの。だから刃物を取り上げるべきだと。大騒ぎになって「危険」なナイフを子ども達から取り上げた。

あの事件以来子ども達からナイフが取り上げられ、が肥後守(小型ナイフ)で鉛筆を削らなくなり、それで鉛筆削りが普及したんだ。電気鉛筆削りとか、いっぱい売られるようになったの。

そうしたら、それからしばらくして、今の子どもは、鉛筆削りを使うから手先が不器用だとなった。鉛筆削りが子ども達を不器用にしたから、昔のように肥後守で鉛筆を削らせよう運動が1970年後半から湧き上がったわけ。いずれも同じ大人の"教育的配慮"でね。
これは典型的な話だよね。大人の都合で180度変わる。最初は、危険だからという理由でナイフを取り上げて、次にそれじゃ手先が不器用になるからナイフを使いなさいってね・・・。

ナイフがあるから、未成年者が人殺しをする。だから子どもの回りから、ナイフや包丁を取り上げてしまえという考え方。これって、携帯電話を子どもが持っているとろくな事が無い、子どもがそれを使って悪さをするから禁止しようっていうのと、あんまり変わらないね。50年前と同じ様なものだね。

道具というのは、悪さも出来るし、そうでない事も出来る。使い方次第だよ。そんなのあたりまえのことじゃない。

建前で言うと、学校では携帯電話を禁止している。だけど子ども達は携帯電話持ちたがっているよね。道具として携帯電話は、今の子ども達にとって必要なものだとおもうよ。塾へ行ったり、遊びに行ったりしたときに、今時の治安を考えると、とても必要な道具。まあ学校が携帯電話を許すようになった時は、携帯電話が廃れている時だと思うけどね。

どんな流行でも、学校が許可をする時は、もうすたれている時。

大人が子どもを守るために何かをしてやったり、守ってやる必要なんて、本来は無いんだ。子どもは無邪気、純心だと思うのは、大人の幻想だよ。大人に知られたらヤバイ事なんてさあ、もうとっくにみんな知っているんだから。

—子ども達は、携帯を便利に使いこなしている。しかし大人達は、子どもに携帯を持たせるべきかどうか騒いでいる。大人達はどうしてこんなに騒いでいるのだろうか?

近藤:それはさ、親たちが最近騒ぐネタが無くなってきたからじゃないかなあ。1970年頃は、赤塚不二夫の「おそ松くん」は見てはいけない、永井豪の「ハレンチ学園」はけしからんと、マンガが槍玉にあがったのを覚えているよね。

そして、その次はテレビ。「八時だよ全員集合」。加藤茶の「チョットだけよ」は、ダメだ。「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」伊東四朗と小松政夫の「電線音頭」はくだらないと、大人は騒いでいた。そんな風にPTAが禁止していた番組が結構あった時代だね。

どうして、大人がそうやって子どもは見ては行けないと言っていたのか?それはさあ、マンガにしてもテレビ番組にしても、そういうのって子ども達に絶大な人気があったの。だけど大人はくだらないとか、けしからんって見なかった番組。子どもは夢中になっているけど、大人にはおもしろさが理解できない番組。そういうのは、大人がけしからんと騒ぐネタになりやすいわけだ。

ところが今の大人、今の子ども達の親世代は、そんなマンガやテレビで育ってきた世代でしょう。「ハレンチ学園」を大人に隠れて見ていた子どもが、もう40代、50代になっているわけ。セーラームーンで育った世代が今や小学生の母親になっている。

だから、今の母親父親は、子ども達と同じ様なもので育ってきたわけね。「昔は・・・」なんて今はもう無いの。

あの頃は、仮面ライダーV3だったのが今は仮面ライダーディケイドになっているだけの違い。昔夢中になっていたから、ウルトラマンでも、仮面ライダーでも、父親の方が詳しかったりするんだよね。キャンディキャンディ、セーラームーンが今は、プリキュアになっているだけじゃない。

だからマンガやテレビで大騒ぎするってことは、あんまり無くなってきたんだね。子どもと一緒に大人も楽しんじゃっているから、けしからんとは言わない。

携帯電話は、いまの親たちが子どもの頃無かった道具。自分が子どもの頃に使った事がないものだから。だから子どもに持たす持たさないって騒ぐネタになるんじゃないかね。

自分が子供の頃に携帯電話がなかったから、ひがんでいるんじゃないの。自分が子供だったら、絶対使っているよね。だって便利だもん。

自分が子供の頃に無かったもの、体験していないものは、イメージが出来ない。子どもがこれを使ったら、こんなに楽しいのに、おもしろく使えるのにってイマジネーションが無いから、禁止することしか思いつかないんだろうね。

自分が便利に使っているものは、子どもだったらもっと便利に使いこなせるんだよね。

—もし、今、2010年、自分が小学生だったら・・・中学生だったら・・・、携帯電話とどのようにつきあっているか?それは想像の域を出ないが、きっと夢中になって使っていることだろう。そして親に怒られ、学校で先生に取り上げられ・・・それでも手放さずに使うだろう。防水の携帯電話だと、風呂でもメールが出来るから欲しい・・・なんて言いながら。

近藤:道具はどんどん便利になるし無くならない。便利になっていくことは、いいことだもの。使う人間がどうやって使っていくか、そのための教育は大切だけどね。

道具を取り上げると言うことは、悪口言うから、言葉を使うなというのと同じだよね。いじめるから、手足を使うな、喋るな、授業に関係有ることしか喋っちゃダメです、それっておかしいよね。

テレビは受け身だけで、本を読む人は考える。ラジオは創造力を伸ばすなんて言うけど、それは不便だっていうだけの話。

便利な道具を使うなと子どもに言うならば、大人も、便利な洗濯機をやめて、洗濯板で洗濯をし、炭火竈で煮炊きをすればとなる。そんなの余裕のある大金持ちじゃないと出来ない時代だけどね。

—携帯電話と子ども、インターネットの影響。でも、本来はまず今の子どものことを勉強しないと話が始まらない。基礎データを持たずに、経験や推測で物を言ったり決めるのはおかしい。だからきちんと近藤さんに「子ども文化」の話を訊いた。

近藤:子どもって、だいたい上の年齢を見て育つの。背伸びをする。リカちゃん人形を開発した時ね、リカちゃんの設定は小学5年生の「香山リカ」だった。1967年リカちゃん人形が発売された当時、リカちゃん人形で遊んでいたのは小学五年生が中心だった。今、リカちゃん人形で遊ぶのは、幼稚園の女の子。仮面ライダーも始まった当初は小学五年生の男の子が見ていた番組だったんだけど、今は幼稚園児が見る番組。小学校に入学したら、仮面ライダーは幼稚だとか言って見なくなるの。

プリキュアも幼稚園の女の子の遊び。子ども達はそうやって、いつも上を上を見て育ってきているから、おもちゃやテレビ番組など、子ども文化財の対象年齢はどんどん低年齢化していったんだよね。

—リカちゃんも仮面ライダーも、今時幼児のコンテンツなのか・・・。小学校高学年向けのコンテンツとして開発されてきたものが、時代を経ることにより幼児向けのコンテンツとなる。

近藤:ところが80年代頃になって、この傾向が変わりだした。DCブランドが流行しだした。そして、女子小中学生までも、大人と同じ様なブランド品を持つようになってきたんだよ。83年になると、ディズニーランドとファミコンが出現してきたのね。ファミコンが家庭のテレビに接続して遊べる様になって、大人もファミコンで遊ぶようになったよね。今では当たり前のように家族全員がwiiで遊んでいる。大人と子どもの境界が無くなってきた。

ディズニーランドは、子ども達が家族と一緒に行って遊ぶ、アミューズメントパークだったんだけど、次第に恋人達が遊びに行くデートスポットになっていったでしょう。

そうなると、高校生から20代、30代まで子どもと関係なくディズニーランドに行き出すわけ。大人も子どもも、同じ様に楽しむようになってしまったのね。いつまでたっても卒業しないわけね。

そう考えるとね、今の親世代は、子どもを「卒業」していないってことになる。

昔は、マンガは小学校で終わり、半ズボンも小学校でお終い。中学に入ったら、長ズボンを穿いて、本を読む。マンガは小学生のもので、それを卒業するのが大人になる証だった。でも変わってきた。卒業していないじゃない。ずっとマンガ読んでいたりするでしょう。

—子どもと大人の境界線がどんどん薄れていく。それは実感していることだ。大人のコンテンツ、子どものコンテンツ、昔は明確に分かれていたのも実感している。どうしてそうなってきたのだろうか・・・。

近藤:それは1955年から始まった高度成長が終わり、変化のスピードが無くなってしまったからだと思っているの。

戦後、高度成長時代って、すごいスピードで色々な物が変化したわけ。たとえばね、井戸水と洗濯板で洗い物をしていたのが、電気洗濯機になったでしょう。ホウキでゴミを掃いていたのが、電気掃除機になった。氷を買って冷やしていた冷蔵庫が、電気冷蔵庫になった。練炭や薪に火を付けて竈で焚いていた御飯が、電気炊飯器のスイッチ一つで炊けるようになった。これってすごい変化だよね。

井戸水を汲んでお米を研いで薪の火を竈にくべて御飯を炊くのって、弥生式時代から続いてきた方法でしょう。それが日本って昭和30年代まで続いていたのが1960年代になって、一挙に電気炊飯器に変わったんだ。

1960年代の日本の家庭には、弥生式時代の人間と現代の人間が同居していたんだよ。1970年代までの家庭を見ると、親は戦争前後育ち(弥生式時代)で、子どもは高度成長時代生まれ(現代人)という構図だったの。だから、昔はこうだった、それに比べて、今はこうだと、親は子どもにやたらと言えた。それは以前と様変わりしたし、その変化があまりにも急速だったから、そう言えたんだよ。

高度成長が70年代末、石油ショックで一段落して、豊かな時代は一旦終わった。そして、そこからの時代は、せいぜいテレビが大きくなったとか、その程度の変化しか起こらなくなった。

70年代後半から、80年代にかけて、豊かな時代が終わると、世の中の意識も変わってきたね。次から次へと、いいものを求めるのではなく、今のものをいかに豊かに使いこなすかがテーマになってきた。そして弥生人は老人となり、現代人の親子が家庭を構成する時代になったのね。そして大人と子どもの差がどんどん無くなってきたんだ。

—20歳の息子、50歳の自分、そして80歳の両親。そう、自分の両親は弥生人。自分はかろうじて現代人。そして息子は真性の現代人。近藤さんの言葉を自分に当てはめて聞いていた。両親はたしかに弥生人だったと。

卒業しなくなった社会。コンテンツの低年齢化。そうなると、子ども文化はどうなってしまったのだろうか?

近藤:今ね、テレビで、子ども番組というジャンルは存在していないんだ。子どもはみんな見ていた番組って、昔はあったでしょう。おはよう子どもショー、ロンパールームなんてね。そういう子ども番組は、あくまで子ども向けで、大人は見ていなかった。子どもと大人は違う番組を見ていたんだ。

ところが、今、男の子がみんな見ているのは、ヘキサゴンやIQサプリみたいなバラエティ番組なんだよ。家中で見る、ファミリーバラエティ番組が子ども達の番組でもあるの。ちなみに、女の子が見ている番組は、ドラマだね。フジテレビの月9枠なんて、小学3年生女子から母親までが視聴者の中心。小学3年生の娘とその母親は、同じ感覚で「ああ、あの二人、出来ているんだよね~」なんてお喋りしながら恋愛ドラマを見ているの。

小学3年生になると、分かると思うけど、男子と女子の発達にかなり差が出てくるよね。男の子より女の子の方が、身体の発達が性的に早いでしょう。身体発達の速度が違うと、考え方も違ってくる。

小学3年生の女の子の話題の定番は、「恋バナ」が中心ね。一方、同世代の男の子は、「おんななんか大嫌いだぁ!」と、無邪気に騒いでゲームやカードで遊んでいるわけ。

子ども文化は昔と違って、幼稚園を卒業するともう無いんだよ。

幼稚園(幼児)文化はずるずる引きずっても、小学2年生から3年生の初め頃まで。2年から3年になるときに、クラス替えがある。この時が幼稚園(幼児)文化の終焉の時期になるのね。仮面ライダーもプリキュアも「見てはいけないもの」になる。大人になる、社会化する、成長するために、見てはいけないものと自覚するわけ。

幼児文化は、親管理の文化でしょう。親に依存して生活する事が基本の文化。子どもにとっても、親管理って楽なだよね。お腹が空いたら何か食べさせてくれるし、オシッコと叫べば、トイレに連れて行ってくれる。子どもが保護者を必要としているから、幼稚園(幼児)文化が成立するんだ。

小学校に入ると、親から自立するようになる。親が側にいない時間を我慢しなくてはならなくなる。「一人でできるもん」がテーマになる。

それまでは、親が与えてくれたもので満足していた幼児がね、自分の欲しい物を「ねだる」様になってくる。「XXX君が持っているから、あれ欲しい!」って。Tシャツの絵柄も自分で選ぶようようになる。

女の子は、幼児からいきなり女になるの。興味の対象が、アンパンマンやキティちゃんから、いきなりキムタクのドラマになる。今や少女時代は無くなってしまったの。

中学校に入ると、男の子は性的に目覚めてきて、やっと異性を意識し始める。でもその頃になると、女子はもう同年代の男子を相手にしなくなっちゃう。そこで男の子は、一部のイケメン、モテモテを除いて、男女関係に関して早速とリタイアしてしまうわけ。

リタイアした男子(モテナイ男子)が何をするかと言えば、「ぼくは、モテナイけど、勉強でガンバッテ尊敬されよう!」、「スポーツで人気者になろう!」、「家でマンガを読んで、マンガを描いて・・・」、「パソコンを使いこなして・・・」と、なっていく。

これって全てオタクだよね。勉強オタク、スポーツオタク、マンガオタク、ITオタク・・・。釣りオタクもあれば、鉄道オタク、自動車オタクもあるね。
8割以上の男子は、早々と女子への性的な関心はリタイアして、多様化したオタクの道に進んでいくの。やがて草食系男子への道に・・・。

女の子はね、私モテて当然、私可愛いでしょうって。中学校までの女子は、おそらく天下無敵だろうね。渋谷の街中で立っていれば、誰かが声を掛けてくれる。そう、自分は可愛いから・・・。

—女の子は、少女時代をはしょって大人になっていく。男の子は、中途半端な少年時代を過ごし、オタクの道をまっしぐらに進んでいく。

なるほどなあ。だとすると、子どもに何を教えればいいのだろうか?そこが気になる。卒業しないで大人になる社会の中で、便利な道具を持つ子どもに、大人が教えなくてはいけない事は何?

近藤:親に内緒で、友達同士で話をするのが楽しい訳じゃない。ひそひそ話ね。大人に知られたら怒られちゃうような話を友達同士でするんだよね。
その内緒話をネットに書いてしまう子どもってのが、ちょっと問題かも知れないなあ。プライバシーとオープンの区別があまりついていないのだろうね。

昔から子ども同士の遊びというのは、親に内緒のちょっと悪いことが当たり前だったよね。友達とひそひそ話でしゃべる、ちょっとエッチな話が面白いんだよね。大声で喋って笑う話なんて、そんなに面白くないもの。

危険だからやってはいけない爆竹とか、危険だから行っては行けませんって言われる池や沼、大人に聞かれたら怒られる話、それが今も昔も、子どもの楽しみなの。

それが携帯メールのやり取りや、ブログ、掲示板を使えば、親や先生に見つかってしまう。面白いけど、人に知られちゃまずい話をネットに書くと、親や先生にばれてしまうってのを、まだよく理解できていない気がするの。

だから「ヤバイ秘密は、ネットに書かない」これを教えないといけないね。「ネットに書いたら、バレちゃうんだから、バレるような事はするなよ!」と教えた方がいいと思う。

書き込みしている時は、大人が見ているという雰囲気が無いから油断するのかもね。あいつになら教えてもいいって、一応本人は秘密の形を取っているんだろうけど、ネットに書いたら見られたくない人にも見られちゃうも。ばれてしまったら、ひそひそ話じゃなくなってしまう。ばれたら問題になってしまう。「ここだけの話」がここだけでなくなってしまうからね。

ばれ方も、昔は徐々にばれていったのが、ネットに書いたら一挙にばれてしまうから、騒ぎが大きくなる。

インフォーマルな人間関係が、インフォーマル風な人間関係となって、広まってしまうのが、ネットの世界。親友同士のひそひそ話が、ネットでは世界中に広まってしまうという事を理解させないとダメだね。

—便利な道具があろうがなかろうが、ないしょ話は、知られてはいけない。いずれバレるにしても、ばれ方がある。正しいないしょ話のお作法を覚えなさい。でも、学校じゃこれって教えにくいだろうなあ・・・。何処で誰が教えればいいのか?考えないと。

携帯電話は道具、しかも便利な道具。しかし 道具は道具。

近藤:携帯電話によって、たとえばイジメが加速されたかと言えば、それはあると思う。なにせ便利な道具だから。

昔はガキ大将が居て、仕切っていたと言うけれど、昔からガキ大将なんて居なかったんだ。大将は一人いればいいんだもの。今は、誰かが威張っていて、それに従うという関係は少ない。むしろみんな同じ。それに付いてこない子が、付き合いが悪いのがいじめられる。

だから、誰かが誰かをいじめるのではなく、全員が一人をのけ者にする構図になっているよね。それは大人社会の差別と同じでしょう。普通ではない、同じではないという理由で、付き合いをしない。そんな大人社会が投影されている。

勉強が出来ない、身体が弱くてとろい、愚図、汚い、気持ち悪いから差別する。集団共通の問題だね。携帯がイジメを加速する道具だという前に、イジメが起きる構造を何とかしないとどうしようもないでしょう。

—もう自分の子どもは大きくなったから関係ないけれど、世の中の親御さんは、子どもが携帯電話を長時間使うことによって、学習時間が短くなると憂いている。

近藤:元々、学習は嫌いなんだから、何があっても、学習時間は短くなるものなの。だからどのようにすれば学習が面白くなるか工夫をする必要があるんだけど。

興味を持ってものを知ることは面白いし、楽しいでしょう。だから子どもは物を知ることは嫌いじゃない。

でもさあ、学習は大人が作った教材を覚えろというものでしょう。そんなのだいたいつまらない。

つまらないからテレビがあったら、テレビ、ゲームがあったらゲーム、携帯電話があったら携帯電話に行くの。それは当たり前でしょう。

ゲームや携帯電話が悪いのではなく、学習がつまらないからだけのこと。授業がつまらなければ、他のことをするのが子どもなんだよ。

—そしてもうひとつ、携帯電話でコミュニケーションをしていると、対面コミュニケーション力が低下する。これは由々しき問題であると。

近藤:これは70年代から言われていることで、今に始まったことじゃないよ。70年代になって地域コミュニティが崩壊していった。それと共に社会は対面コミュニケーションを避けるようになってきた。

お隣に味噌醤油を借りに行くと、何かと面倒くさい。隣の人に借りると、そのお礼をしなくちゃならない。隣の人が困ったら、無視できない。それが負い目となり、うっとうしくなる。それを避けだしたのが70年代の日本。インターネットとか携帯とかメールの出現と関係なく、日本の社会はそうなってきたんだ。

戦前までは一次産業、特に農業で食べていたから、仲が悪くても我慢する、折り合いを付ける、根回しをする、そうやって地域コミュニティの中で生きてきた。だってその場所を離れたら、生活できなくなるからね。
その地域で上手に生きていく術を心得ていないと生きていけなかった。農耕民族ってそうだよね。狩猟民族だったら喧嘩して、仲間割れしてその場所から離れても食べて行ける。
日本は急速に農耕社会から狩猟社会的な近代的な、サラリーマン社会に変わってきた。所属している組織で我慢しなくても、転職すればいい。そして近所と喧嘩したら引っ越せばよくなった。

そういう社会になったから、コンビニが生まれたのだろうし、ひと言も喋らずに買い物が出来るスーパーが急速に増えていったんでしょう。
社会自体が面倒な対面コミュニケーションから解放されたがっているんだもの。

人に道を聞かない、駅員に電車の時刻を聞かない、それでも今は自分で調べられるからね。パソコンでも携帯でも。他人との対面コミュニケーションを面倒だと感じる人が増えたから。
飲み屋だって、隣の人と喋るのが鬱陶しいからって、個室風の仕切りのある居酒屋が人気だもの。

だから、携帯電話は時代に適合した便利な道具として急速に普及したんだよね。
地域コミュニティが崩壊した1970年代以降に生まれた親と子どもの家庭で、対面コミュニケーションがどうこうなんて言う親自体が、対面コミュニケーションを面倒だと思っている人たちなんだよ。

携帯がどうこうよりも、社会が対面コミュニケーションの便利さを忘れてしまい、鬱陶しいと感じている事を考えなおさないと。大人が面倒だって感じている事を子どもにやらそうとするのは無理だよね。子どもはそうした大人社会の中で社会化されているのだから。

—メディア、道具・・・インターネットも携帯電話もそれ自身がどうこうという問題ではない。重要なのはメディアの中を通る情報、道具を使う人間の心。

社会全体の構造的な問題を変える事は一朝一夕には出来ない。それにそんな大きなテーマを敵に回しても仕方がない。

道具が良くないと言って、道具のせいにするのはとても簡単なことだ。簡単だから文句が言いやすい。

でも、道具を取り上げる、規制する事が、どれだけ社会のため、子どものために有益なのか?もう一度考えたい。

近藤:その時代に対応していこうというのが、動物の本能だからね。子どもたちは新しい道具をあっという間に、使いこなしてしまう。それが社会化だよ。

現代人でも、ネアンデルタール人でも、生まれたときは、それ程変わりが無いのね。それがわずか3年ぐらいの間に、物凄い違いが生まれてくる。

それは生まれた社会の環境によるもの。その環境に適合しようとする、社会化するの。そのくらい子どもって環境に影響されるとも言えるね。環境次第で、ネアンデルタール人と現代人の違いになってしまうんだよ。

—団塊の世代は、小学校の時にマンガと出会ってしまった。 それが現代っ子の始まり。

自分の世代は テレビと出会って本を読まない、一億総白痴化世代と言われた。

そして今、ネットと携帯に出会った世代が成長していく。

「昔はネえ、学校に携帯電話を持っていったら、怒られて取り上げられたんだよ。おとなに禁止されていたんだよ」

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