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「インターネットと子どもたちの未来について」
脳科学者 茂木健一郎氏インタビュー

カテゴリー: 情報モラル・リテラシー教育 / インターネットの安心・安全をめぐる動き

子どもたちはどういう価値観を持つべきか?

規制や技術などで縛る前に、子どもを持つ親や教育者が、子どもとインターネットの関係はどうあるべきという考え方をしっかり持つべきだ、と述べる脳科学者茂木健一郎氏。「セキュアベース」という考え方をインターネットの世界に置き換えたとき、「抑止」から「活性化」への道が見えてくる。

脳科学者 茂木健一郎氏

茂木健一郎(もぎけんいちろう)
脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。2005年、『脳と仮想』で、第四回小林秀雄賞を受賞。2009年、『今、ここからすべての場所へ』で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。

学校での授業や、ワークショップなどを通じ、学校の先生方、保護者のみなさんにお話をうかがう機会があるごとに、社会におけるインターネットの本質的な"理解"について疑問をもちはじめていました。

インターネットは我々大人世代にとって生きてきた途中で現れたまったく新しいメディアです。そのため多くの方はインターネットを「便利なもの」として認識しつつも、その利便性や仕組みに適応できないまま、インターネットの良い側面が見えにくくなってしまっている方が多いのではないかと感じていたのです。

数年前、茂木健一郎先生の著書『フュ―チャリスト宣言』(梅田望夫共著・筑摩書房刊)を読ませていただきました。そのお話は大変わかりやすく、インターネットの本質をとらえた内容だと感じました。子どもたちへ、教育者の方々へ、保護者の皆さんへインターネットへの理解を深めてほしいと考えていた私に、大きな勇気を与えてくださった一冊です。

このたび、幸運にも茂木先生にお会いしてお話を聞くことができました。
ご自身の活動も、積極的にインターネットを通して、世界に発信されている茂木先生のお話は、大変広く、深いお話です。ぜひ皆様お読みになってみてください。

(1)情報モラルをもつ意味とは

鎌田:ここ数年、子どもたちとインターネットの関係についてさまざまな議論がなされていますが、茂木先生はどのようにお考えになりますでしょうか。

茂木:たしかに、今、ネットにはさまざまな規制が生まれていますね。その一方でケータイ小説や動画配信などといった新しいカルチャーも出てきています。
子どもとケータイの関わり方を考える前に、僕は第一前提として、インターネットには良いところも悪いところもあると考えています。そして大切なのは「自分がどう向き合うか」ということではないでしょうか。

少し難しい言葉で言えば「情報倫理」、モラルをどのようにもつか。情報倫理というのは、いかにメディアを使うのか、自分についての情報をどう発信するかといったいわゆる情報に対するモラル、考え方です。
たとえばツィッターでのつぶやきやSNSでのコメントひとつにしても、自分がどのようなモラルを持っているかで発言が違ってきます。

僕自身で言えば、僕なりのモラルとして保持しているのは「自分の発言がコミュニティや社会をより良いものに導くかどうか」。インターネットは公共性の高いスペースです。そこでする発言は社会のウェルフェア(福利)に少しでも貢献するものであってほしい。どんな小さな言葉でも、それは世界につながっているわけですから。

しかし、残念ながら、今の日本のインターネット上で飛び交っている情報は、モラルに裏打ちされているとは言えない内容が多い。匿名掲示板にしても、コミュニティサイトにしても、そこで交わされている議論や意見は必ずしも質の高いものではないです。しかし、一人一人が何らかの意識をして発言をしていったらどうでしょう? より大きなインターネットの可能性を感じられませんか?

また、情報倫理をもつということは、自分がいかに情報発信をするかということだけでなく、インターネットの何を良い面としてとらえ、選択的に使っていくかということにもつながります。

ウィキペディアのような新しい百科事典の形式は大変な意味あるものですし、SNSで知らない人同士がコミュニティを作れることも画期的なことです。 YouTubeなどでは、今や大学レベルの講義を日本語、英語でも聞くことができる。インターネットは大いなる学びの場でもあるのです。

インターネットは自由度の高いメディアです。だからこそ、何をもって「良い」「悪い」と考えるか。その判断基準こそ、その人とインターネットの関わり方そのものになります。言い換えれば、情報モラルの持ち方によって自分が対峙するインターネットの世界は豊かにも、つまらないものにも、学ぶ場にも、危険な場にもなる。まず、このことを子どもたちに伝えるべきではないかと。

そしてもうひとつ、子どもがインターネットに触れていく段階を発達心理学から見たとき。僕は 「セキュアベース」という考え方が鍵になると思っています。

(2)セキュアベースとインターネット

「セキュアベース」とは、発達心理学の概念で"安全基地"という意味です。
基地は子どもがいつでも帰って来られる場所、安心できる場所として機能します。そして自発性を尊重し、何をやれなどの過干渉はしない。しかし危険なことにはストップをかけ、こう考えたら? といったガイダンスがある。

提唱したのはジョン・ボルヴィ(John Bowlby,1907-1990)というイギリスの心理学者。子どもたちはこうした基地があるからこそ外の世界で冒険し、発達・成長できるという考え方です。子どもにとって、いつでも甘えられる母親や家族、家の存在もこれに当てはまりますね。

では、この考え方をインターネットの世界に当てはめるとどうでしょう。子どもたちをネットから守るために提唱されている施策の数々は、安心でき、かつ成長を促すセキュアベースになり得ているでしょうか。

携帯電話のフィルタリングから検証していきましょう。

フィルタリングには、ホワイトリストとブラックリスト ※1 の方式がありますが、インターネットの世界には新しいものがどんどん出てくる。そのためブラックリストでセキュアベースを構築するには設定が間に合わない可能性がある。その点、ホワイトリストで、ちょっと大変ですが子どもたちが自由に探究できるぐらいの幅広さがあれば、基地的役割を機能できると思います。

しかし、ホワイトリストも万全の実効力があるかどうかは疑問が残ります。ケータイ・ネットをホワイトリストで制限しても、ネットカフェや家のPCなどインターネットにはいろんな入口があります。そこでユーザーの年齢を一義的に認証し、制限をかけるというのは非常に難しいことです。

条例などによる規制も同じです。子どもたちのケータイの所持を禁止しても、インターネットの入り口は無数にある。そもそも100パーセント所持禁止の規制では、子どもたちの情報に対するスキル、モラルすら育たなくなってしまう。

また、子どもの発達に伴って、どの段階で自由にインターネットを使わせるのが好ましいかはもっと議論すべきだと思います。18歳、20歳からというのは、年齢設定が高すぎますよね。案外、そこら辺の議論がし尽くされていない。さまざまな観点からのアプローチが必要だと思います。

オープン化がどんどん進むインターネットの世界では、公的機関が「これをやってはいけない」と規制をするには限界があると思います。誰だって小さいころは大人の世界を知りたくて、親や先生の目をかいくぐって大人向けの本や雑誌を見たりしたじゃないですか。僕も修学旅行先で先生に見つからないよう、同級生とこっそり深夜番組を見た覚えがあります。でも、今考えるとそれも発達段階の一つですよね。子どもが親の目を盗んで有害サイトを見ることをゼロにするのは実質不可能だし、それは、どこからも誰からもアクセスできるというインターネットの特性を否定することになる。

では、子どもたちのセキュアベースはどこに設定すべきか。僕は、ネットの中の仕組みや法律ではなく、子どもたちの内なる部分に触れる場所—つまり、家庭や学校といった教育環境の中で育むべきではないかと思うのです。

※1 ホワイトリスト=見てもいいページのみを登録し、それ以外のページにはアクセスできないようにするフィルタリングの方式。その逆に、見せたくないページをリストアップし、アクセス制限をかけるのがブラックリスト方式)

(3)メディア過渡期の中で

茂木:サイトの閲覧だけでなく、子どもたちのインターネットでのコミュニケーションを禁止することについての議論も、僕はナンセンスだと思います。

いくら子どもたちにネットコミュニケーションを禁止しても、インターネットにアクセスできる環境があれば、勝手にGmailなどのアカウントを作れてしまう。そこに年齢の認証はないわけですよね。また、国民一人一人がネット上のTaspo(タスポ)を作るというのもやりすぎだと思います。

たとえばアメリカのように「学校でナイフを持ってきてはいけません」という校則を作っても、生徒にナイフを持たせないようにするのは非常に難しい。世の中のナイフすべてに番号をつけて、コンピュータ管理させることになる。まるで、映画のような世界ですよね。それよりも、ナイフの正しい使い方を伝え、ナイフが必要でない社会を構築するほうがはるかに安全です。同じように、インターネットも正しい使い方を教えていくのが"安心"への近道ではないでしょうか。

僕は技術論や法律論、自主規制論と、「子どもとインターネットの関わり方はどうあるべきか」という教育哲学は切り離して考えるべきだと思うんです。規制や技術などで縛る前に、子どもを持つ親や教育者が、子どもとインターネットの関係はどうあるべきという考え方をしっかり持つべきだと。その考え方こそが、子どもたちを守る何よりの"安全基地"になると思います。

もうひとつ、今はさまざまな事象が過渡期であることを忘れてはいけません。
インターネットとの関わり方が、技術的にも社会との関係においてもいまだ成熟していない段階にあるのです。

たとえば、紙の新聞はどうなるのかということがありますよね。僕の学生にも新聞を読まない、地上波のテレビを見ない層が出てきています。テレビも見るとしたらケータイの動画で、そもそも彼らはテレビ受像機を持っていない。
特にデジタルネイティブ的な層はそういう傾向が高くなる。こういう層は今後増えていくと思います。
新聞を読まないことについては別の議論もあると思いますが、僕は、メディアの変化によって新しい世代の世界観や物の見方が変わってくることが問題になるのではと思っています。

先ほど挙げた新聞を例にお話をしましょう。まず、一般的な新聞の整理部の見出しの付け方には、ニュースバリューの判断があります。国の政治のニュースが一面に来ても、アイドルが大学の入学式に来たことがトップに来ることはない。

でも、インターネット上のニュースサイトだと、アクセス数を稼ぐためにトピックは芸能ネタ中心になっていますね。ニュースバリューの判断が伝統的なものとは大きく異なっているわけです。すると、ニュースの受け手の価値観もトピックスの上位に来る事柄が重要ととらえるようになってくる。社会の中の事象の重要度まで変わってくるわけです。芸能ネタが良い悪いではなく、選ぶメディアによって価値観が異なってくるということを我々はもっと意識すべきですし、今後大きな問題につながっていくのではと思います。

僕は、基本的にデジタルネイティブと呼ばれる層や、インターネットを使いこなして新しい世界を作るということには賛成の立場です。しかし、過渡期である今、さまざまな問題点が噴出しつつある。それは、きちんととらえなくてはならない。

その問題点をどう議論し、克服していくかということはやはり大人の側の責任だと思うのです。そして、それは工夫しながらポジティブに克服していけばいい。でも、それには技術や規制だけでなく、学術的面からも含めた多彩な議論がなされる段階ではないかと感じています。インターネットは、子どもたちの未来につながる財産であり、今はその基礎を築く大切な時期だと思います。

(4)日本経済を考えたときに

茂木:また、インターネットからは新しい文化が生まれていますよね。僕はこうした動きを促進させることは、日本経済の活性化のきっかけになると思います。

たとえば、10代の子たちに流行っているケータイ小説。内容を批判する人もいますがそれで活字のマーケットが広がるわけですよね。従来型の小説のマーケットもあれば、ケータイ小説やブログ本のような新しいマーケットもある。現代社会のキーワードは"多様性"だと思うんです。

しかし、メディアや産業が新しく生まれ変わるときには「規制」や「批判」という動きがどうしても出てきてしまう。

たとえば、日本で鉄道を敷設する際も蒸気機関車の側に寄ると病気になるとか、黒い煙で農作物がダメになるなどのデマが飛び交った歴史があります。新しいものに対するアンチテーゼって人間の心理に常にあるものなんです。

50年代、テレビが普及し始めた時代も「一億総白痴化」という言葉が流行しました。でも、テレビというメディアが悪いんじゃない。問題はテレビをどう使うか、でしょう?

日本経済を考えると、真剣に何とかしなくてはいけない時期に来ています。国民が、識者が、政治家が総出で日本経済を活性化させるためにどうするかを真摯に考えなくてはいけない。特にインターネット上のレギュレーションをどうやっていくかという問題は、経済成長に大きな影響を及ぼすのではないでしょうか。

しかし今、インターネットに関わる規制や条例の中には日本の経済成長を明らかに阻害するような案件もある。今、すべきは「抑止」ではなく「活性化」です。今、かけた規制が10年後、20年後の子どもたちや日本の国力にどう影響するのか。これは、行政側のみならず保護者の方々にもじっくりと考えていただきたい問題だと思います。

先ほどの話に戻ると、ケータイ小説を批判する人たちは、それが出ることで今までの小説が消えてしまうのではないかと勘違いをしているかもしれません。

しかし、インターネット環境が整っていく世界では、価値観にもロングテール現象が起こっています。ケータイ小説を読む層、日本の古典を読む層、Project Gutenberg ※2 で英語の古典を読んでいる層、すべてが認められる時代なのです。

フラットな視点から多様な価値を認めることも、これからの日本人には必要だと思います。

※2 プロジェクト・グーテンベルグ=著作権の切れた作品を全文電子化してネット上で公開するという計画)

(5)「世界の見方」を伝えていくこと

鎌田:茂木先生のお話を聞いていると、技術的な仕組みや規制といったハード面より、子どもたちの内面を養うこと、その環境づくりこそ必要という気がしています。

茂木:そうなんですよね。インターネットの世界ではとかく技術論やメディア論が先行してしまいますが、使うのが人間である以上、一人一人の精神性やフィロソフィーから育てていくべきだと思います。

先ほど、僕なりの情報モラルとして「社会に貢献できるか」というお話をしましたが、もうひとつ、インターネットとの関わりの基準で「新しい価値ある文化をつくることであるか」ということも考えています。だから、僕は「2ちゃんねる」には関わらない。2ちゃんねるは新しい文化かもしれないけれど、価値ある文化かどうかは僕の中では判断ができないからです。

価値を見いだせない理由—これは2ちゃんねるに限らない話ですが、日本のBBS(掲示板)サイトには公共性が欠如している印象があるのです。ブログなどもそうですが「インターネットは公共のものである」という認識のない文章・情報が目立つ。もちろん意識して情報発信している人もいますが、一般ユーザーレベルだとその情報のレベルはかなり低い。

BBSで発言をすること、ブログを書くということはインターネット上にある種の情報を付け加えるということであり、世界につながっている以上そこは人類共有のパブリック・スペースです。でも、日本人はブログ一つを見ても、自分の日常的なつぶやきとかが大半であり、社会に対しての発言という意識が希薄です。そういう文化からはウィキペディアは生まれてこない。ウィキペディアはパブリックの意識が高いアメリカだからこその産物だと思います。

日本のインターネット文化が世界的な波及力を持たない理由は、個人の社会に対する価値観、倫理の脆弱性にあるのではないでしょうか。たとえば日本ではバラク・オバマは出ないと昨年あたりよく言われましたが、日本の国民のコミュニティや社会に対する価値観が成熟していないことを端的に述べた言葉だと思います。

では、社会に対する価値観を養うにはどうすればいいか。それには読書や社会との関わり、つまりインターネットの外側の世界で子どもたちが広い教養、素養を身につけることしかないんです。

きちんとした価値観をもっていれば、有害サイトやつまらない批判、風評に惑わされないで済むし、悪口や下世話な話も価値のないことを書き込まなくなる。引いては悪質サイトに対する一番の抑止力になり、インターネットの健全性を保っていくことにつながると思うんです。

僕は"悪貨が良貨を駆逐する"ではなく"良貨が悪貨を駆逐する"世の中になることを期待したい。そして、日本の多くの子どもたちが世界に通用する価値観をもつことは、将来的な経済活動や国力のポテンシャルアップにもつながる。暗いニュースが多い中、希望をもてる未来へ向けた大きなかけ橋になると思います。

だからこそ、今本当に必要な議論は、子どもたちがどういう価値観をもつべきか。

「世界の見方」をどう伝えていくかではないでしょうか。これは行政やサービス側だけでなく、すべての教育者、すべての親御さんが考えていくことだと思っています。

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