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「コミュニティサイトのあるべき姿」
社会学者・批評家 濱野智史氏インタビュー

カテゴリー: 情報モラル・リテラシー教育 / フィルタリング / インターネットの安心・安全をめぐる動き

社会の課題としてのコミュニティサイト運営

コミュニティサイトを使うのは若者であり、人間関係が流動的な世代が使っている。それらを国の主導で規制するというのは根本的な違和感があると、述べる濱野智史氏。インターネットの匿名性や、日本と海外との違い、コミュニティサイトを社会の課題として捉えることの重要性、また理想のコミュニティサイトについて話を聞いた。

社会学者・批評家 濱野智史氏

濱野智史氏
社会学者・批評家。専攻は情報社会論・メディア論である。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より国際大学GLOCOM研究員。2006年より日本技芸リサーチャー。
著書に『アーキテクチャの生態系』(2008年、NTT出版)。 共著に『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇』『ised 情報社会の倫理と設計 設計篇』(2010年、河出書房新社)。 解説に『イマココ- - 渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』コリン・エラード(2010年、早川書房)。

今回は濱野智史さんにご登場願いました。濱野さんの著書である「アーキテクチャの生態系」を読ませていただくと、自分自身がコミュニティサイトのあり方について日ごろ考えている一つ一つがつながっていくように頭が整理され、とても助かりました。いつか、お目にかかってコミュニティサイト全般のお話を伺いたいと考えていました。今回、大変充実した内容をお話いただきました。個人的にも大変、勉強になり考えが深まりました。多くの方々にぜひお読みいただきたい内容です。

規制への違和感

—フィルタリング整備、石川県条例などでケータイ電話の所持規制などこの1、2年の子どもたちとインターネット、携帯電話をめぐる動きについてどうお考えでしょうか?

その質問を受けてまず思ったのは、私が未成年の頃はどうだったかなということだったんです。私は1980年生まれなのですが、当時は、iモードがなかったので、現在のようなコミュニティサイトの問題はほとんどなかったのですが、当時はテレクラが出会いサイト的な機能をもっていて、特にブルセラ ※1 や援助交際が問題とされていたんです。私はその問題に直接関わることはなかったのですが、知り合いの知り合いぐらいになると援助交際をしていた子に行き着くような世代だったんですね。そこで当時、大人の側は、「援助交際なんて、けしからん。規制しろ」という議論を盛んにしていたわけです。

私が評論活動や社会学に携わるようになったのは、宮台真司 ※2 さんという社会学者の影響が大きかったのですが、そのとき宮台さんは当時ブルセラ・援助交際に関する論戦を貼られていて、それは非常に納得のいくもので、強く印象に残っています。一言でいうと、援助交際などを規制したり、子どもたちを無理やりその問題から引き離しても仕方がないということなんです。くさいものにふたをしろという対応ではだめなんだと。いまなら、ケータイを取り上げたところで、援助交際したいとか出会いたいという人にとって手段は他にいっぱいあるわけで、規制してもいくらでもアングラ化してしまう。目立つ所を規制しても何の意味もなく、むしろそれは最も単純な対処方法でしかない。どうせ、多かれ少なかれ、女子高生たちの一部はそういったものに接触してしまうのだから、必要なのは「免疫をつける戦略」なんだと宮台さんは言っていたんですね。単に、触れさせなきゃ良いんだという考えは機能しないのだと。

私は青少年のケータイ規制に関するニュースを聞くたびに、この宮台さんの言葉を思い出すんですね。もちろん、何でもかんでも免疫をつければいいというものではないでしょう。しかし、ケータイはもはや現代社会にとって欠かせない存在ですし、いずれ大人になればみんな持つわけです。だから、子どもから単にケータイを取り上げるのではなく、いち早く慣れなければいけないという方向で考えるべきなのであって、単純に「規制すればいい」というのはいかがなものかという考えが私にもあります。

また、別の角度からお話をすると、ここ10年ぐらい、子どもたちにとって、コミュニケーション力をつけることが大切だという話があります。そしてそれには対面コミュニケーションが重要だと言われています。確かにそれも重要ですが、これからは、新しい人と出会ってつながっていくネット上のコミュニケーションもすごく大事だと思いますし、そういう機会をなくせという発想の根本に疑問があるわけです。私は10代のころはケータイを使っていませんでしたが、試行錯誤しながら使ってきたこの10年のことを考えてみても、規制というのはどうかなというのが私の考えです。

ケータイ的なコミュニケーションが力を持つというとき、私がいつも意識している話があって、それはバングラデシュにある「グラミンフォン」という携帯電話ビジネスのエピソードなんです。『グラミンフォンという奇跡』(英治出版)という書籍も出ています。これはもともとは「グラミンバンク」という、世界的にも有名なマイクロファイナンスのプロジェクトが背景にあります。バングラデシュは、世界の中でも最貧国に入るようなところなんですけれど、グラミンバンクは貧しい人々に小額のローンを組ませるプロジェクトなんですね。ローンを組ませるなんて、さらに貧しくなるのではと思いがちですけども、それが逆で、例えば田舎に住む女性にローンで牛を買わせて、牛乳を売ることができるようになれば、経済的に自立する道が開けるということで、近年非常に注目を集めたプロジェクトです。そのケータイ版がグラミンフォンで、このビジネスのおかげで、携帯電話がバングラデシュで一気に普及したそうなんですね。

それはどういうことかと言うと、さきほどの例で言えば、田舎の女性が、ローンで買った牛を育てて牛乳を売りにいくとしますよね。田舎なので、市場のある村まで距離がけっこうある。市場があるのはAとBという村なんだけれども、果たしてどちらを売りにいくべきかは行ってみないと分からないんです。向こうの在庫状況も相場情報も分からずに行きますから、わざわざ何十キロも歩いて村まで行っても、売れなくて帰ったり無駄足を踏むことがあるわけです。でも、そこでケータイがあればどっちの村に行けば良いか事前に聞けるんです。だからすごくビジネスが効率的にできると。これはすごく単純な話ですけど、ケータイで事前の情報を収集するネットワークができれば、ますます経済的な自立が果たせるというストーリーになっているんですよ。

このようにしてケータイは、今、最貧国で急速に普及している訳です。当たり前なんですけれど、そこでは人間にとってケータイは力になるものだという認識が背景にあるわけです。でも、ケータイが経済的自立につながるというイメージは、日本ではないですよね。日本社会では、この10年でケータイはほとんど行きわたり、持っていることが当たり前になり過ぎてしまったと思いますし、今の日本では、ケータイが生きるために役に立つというイメージは持たれていない。むしろケータイというと、若い人はメールやゲームばかりをして、ケータイのせいで人間的な自立から遠ざかってしまうと思われているわけでしょう。でも、本当はケータイを持ったり、パソコンでネットワークを作るということは、人間が社会的活動をする上で根源的なことなのですから、そのための手段を若い人たちから取り上げるのは根本的に違和感があるんですよ。

でも、私達の社会はいまそのことに特に違和感を感じていませんよね。ケータイでコミュニケーションをするというのは、何か人間にとって、とりわけ若い人にとっては無駄なことなんだと思われている。『ケータイを持ったサル』(中公新書)なんていう本もありましたが、「人間的」どころか、むしろ「動物的」なことであると思われてしまっている。そういうイメージを私達の社会はケータイに対してもっているわけです。でも私はこの構図全体に違和感があるんです。どうして私達の社会はコミュニケーションを無駄なことだと思ってしまうんだろう?そこに違和感があるように感じられていないというのであれば、それは大変まずいのではないか。社会全体の問題として、これはちゃんと考えておかないといけないと思うんですね。ケータイを若者から取り上げようという一部の動きに持つ、根本的な違和感というのは、そこなんですよ。

※1 ブルマーやセーラー服などの着用後の衣類のことを言う。90年代頃から、女子高生を中心にこういった衣類を専門店に売りにいくことが社会問題化した。

※2 社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。
著書に『制服少女たちの選択』、『終わりなき日常を生きろ- オウム完全克服マニュアル』、最近の著作には『14歳からの社会学』『〈世界〉はそもそもデタラメである』などがある。

大人と子どものコミュニティサイトの捉え方の違い ~内発的動機の有無~

—私達が学校や保護者の会や講演の場に行くと、大人側の恐怖感を感じることが多いです。子どもたちの積極性、理解の早さを考えると、大人と子どものギャップが大きく、大人側からのケータイ・インターネットのリテラシー教育というのは非常に難しいという印象を受けます。

確かにそうですね。そもそもリテラシー教育うんぬんよりも前に、ケータイというのは、学校という空間と根源的にそぐわない部分があると思うんです。というのも、今までは教室というアーキテクチャ- - 空間設計のされ方- においては、子ども達がケータイを持っていないことが前提にあったわけです。ミシェル・フーコー という哲学者の有名な概念に、「パノプティコン」というものがあります。これは「一望監視装置」と訳されたりもするのですが、要は権力者が高台からみんなを見下ろすことができるように空間を設計すると、みんなは「もしかしたら自分も監視されているんじゃないか」と権力者のまなざしにビクビクするようになって、自然とおとなしくなる、という話ですね。フーコーにいわせれば、監獄も工場も教室も、近代的空間ではこの「パノプティコン」の構造が採用されているというわけです。じっさい、教室というのは教壇という高台から、先生が全てを俯瞰できる位置にいて、生徒が勉強しているかどうかチェックできるようになっていた。今までだと生徒は、せいぜい、教科書を立てて寝たり、弁当を食べたりするくらいだったわけです。

しかし、これがケータイの出現によって、面と向かった教師とコミュニケーションをとるのではなく、違う人とコミュニケーションがとれてしまうようになったんですね。その場の空間から生徒たちが離脱してしまうわけですから、先生にとっては普通に考えたら辛いですよね。

ただ、これは仕方がないというしかない。ケータイがなくても、つまらない先生の話は、マンガ読んだりするわけですから、面白い授業するしかないんじゃないかなと率直にそう思います。私自身、講演したり授業に近いことをしたりすることもあるんですが、そもそもの前提としてみんな手元のケータイしか見ていないんですね。

話、聞いてないんじゃないかと思うと、Twitter上では、講演についてすごく盛り上がっていたりする(笑)。なかなか難しいとは思うんですけど、ケータイを見ている前提で授業をして、話の巧みさで巻き取っていくということをしなければいけなくなっていると思います。今までの先生からすれば、それは辛いとは思いますが、本当に教えるとか話を聞かせるとなったら、それを前提でやるしかないと思っていますね。

—社会のルールは教えられるけど、web独特のリテラシーやルールについて教えられる大人はまだまだ少ないと思います。コミュニティサイトを活用している先生も少ないでしょう。子どもたちにとっては、すでにコミュニティサイトはインフラとなっているように感じます。そのギャップをどの辺りで埋めていけるんでしょうか?

そのギャップを埋めるのは難しいかもしれません。結局、コミュニティサイトにはまるのはそもそも若者なんですよ。なぜかというと、彼らの生活は、常に人間関係が流動的だからです。進学したり、クラスが変わって友達が増えたり減ったりもする。自分の人生も将来も不確定な状況で、自分が何者なのかもよく分からない。また、恋愛にもすごく関心があったりして、「あの子と俺は友達なのかな、それともちょっといい関係なのかな」といった感じで、人間関係に過敏にならざるを得ない時期なんですね。

私の考えでは、だから若者というのはケータイメールを過剰なまでにやるし、mixiのようなSNSもすごくハマるんです。私が調べている中ですと、特に大学一年生が最もコミュニティサイトにはまるんですよ。新しい人間関係が広がり、アドレスを交換する機会も増える。自分にとって好意を持っている、持っていないということにもすごく敏感になる。だからmixiとかコミュニティサイトを使って、「自分は向こうのサイトに足あとを残したのに、相手からはコメントが返ってこない。もしかして嫌われているのかも?」という感じで、人間関係の距離感や空気を読んでいくんです。

逆に言うと、ある一定の世代から上のおじさんたちは、全然、コミュニティサイトには、はまらないんです。そもそも普段の生活で、人間関係の変動が起きなくなっているんですね。特に、大企業の組織に埋め込まれている人にその傾向は強いでしょうね。もちろん、社内の人間関係とかには異様に敏感だったりするのですが、それは別にコミュニティサイトでやることじゃないわけです。それじゃあ、コミュニティサイトとかに興味を持てないだろうなと思うんですよ。

ただ、企業を定年退職されたリタイア後の方であれば、mixiやコミュニティサイトに参加すれば楽しめるはずだと思います。現状は、ほとんどまだこの世代でコミュニティサイトを使っている方は少ないのですが、会社をやめたら趣味も増えてくるし、登山などのサークル活動をやって、新しい友達を増やしたいわけですから、そうすると生活が大学生っぽくなるんですよね。そういう状況になると、いろんなものを検索したり、いろんな人とつながったりということをしていくことに必然性があるわけです。だから、そういう層にはコミュニティサイトに対する潜在的ニーズは高いはずです。

つまりここで言いたかったのは、リテラシーがない人達というのは、単に「慣れていない」ということに加えて、そもそもそういったサイトを利用する「動機づけ」がないんですよ。それが、良いか悪いかはさておくとして、その人達の置かれている状況がネットワークを欲していない。そういう人に、無理して覚えろと言われても苦痛だと思います。もし、私が大企業で働いていて、毎日、会う人も一緒だったら、mixiに入れって言われても使う意味が分からないと思います。

そもそも、コミュニティサイトなどのネットワーク・コミュニケーションにはまるのは、内発的な動機づけがあるからであって、強制されてはまっているわけではないんです。素直に、好奇心をベースに行動していく訳ですから、動機づけのないものに対してリテラシーを身につけろといっても、それは難しいだろうなあと思います。ただ少なくとも、自分が使いたいとは思わない若者たちの未知の世界に対して、変な先入観を持つことだけは避けるべきだとは思いますね。SNSやコミュニティサイトは昔はなかったわけですけど、そこで起きているコミュニケーションは、若者なら誰だって持つような動機づけがベースになっているわけで、決して理解できない類のものではないんです。

インターネットは社会の鏡 匿名性について

—2007年のフィルタリング導入による未成年者のコミュニティサイトへのアクセス制限をきっかけに、初めてコミュニティサイト事業者が集まって話し合うことになりました。コミュニティサイトはそれぞれ個性がありますし、コミュニティサイトと十把ひとからげにされがちですけど、SNS、ブログ、掲示板など、構造によって問題も全く異なっています。その中で子ども達が安全に参加するという環境を整えるには、提供者としてはどのようなことを行っていけば良いと思われますか?

難しい問題ですね。立場によっても違うでしょうし。ただ、インターネットの中で匿名性の問題は避けて通れないですね。たとえばこういう議論になると、韓国のように国民IDが付与されて一元管理すれば、安心・安全を確保できるのではという話が必ず出てきます。ただ、IDのようなものを国が国民に割り振って管理するのはいかがなものか、という意見もあります。

まず、私は、子どもたちにインターネットを自由に使わせるべきだと考えています。ただ、自由を認めるということは、それに伴う責任を取らなければならないんです。子ども達に自由に匿名で使わせ、責任逃れしても良いというのは認めてはいけないと思うんですよ。

そうすると、これは矛盾するように聞こえるかもしれないんですが、子どもたちのネット上での行動をある程度、追跡できるシステムが必要になると思います。これはコミュニティサイト提供者のみなさんがすでに対応されている場合が多いので、今さらという部分もありますが、少なくとも何らかの責任を追求しなければいけないというとき、完全な匿名性では対応できない。子どもたちが利用するコミュニティサイトに関していえば、匿名性を強化する方向性に行く必要性は全くないと思っています。

たとえば、弁護士の小倉秀夫さんが共通ID ※3 という仕組みをかねてから提唱されています 。これは決して国がそういうものを整備しろという話ではなくて、民間のプロバイダがネットコミュニティを管理し、仕組みを整理した方が良いという話なんです。私もIDを国が管理するのは危険だと思います。また、Facebook なのかGoogleなのか、どこのIDが共通IDとして機能していくのかという議論もありますが、いずれにせよ国ではなく民間で、共通で使えるIDが提唱されていく分には、いいのではないか。そしてユーザーのプライバシーを侵害しないような環境整備が可能であれば、共通ID制度は進めていっても良いのではないでしょうか。

この手の議論になる時に思い出すのは、2ちゃんねるです。2003年に、2ちゃんねるはそれまでの完全匿名制から、IPログを取るようになってきたんですね。その時に、多くの人は「これで2ちゃんねるは終わった」と言っていた。でも、もちろん、ご存じの通り、依然今でも終わってないわけです。IPを取られているのを知っているのに、犯罪予告とかしている人もいますしね。書いたらすぐ捕まるって知っているはずなのに。いまの2ちゃんねるは匿名と言いながらも、実際にはあくまでサイトの表面上に名前が出ない擬似匿名でしかないのであって、裏側ではログを取っているから、結局は足がつくんです。

ネット上の匿名についての基本の線はこのぐらいで良いのだろうと思っています。マンガ喫茶でも個人情報を取りましょうということになってきましたが、別に、犯罪するためにインターネットを使っているわけではないし、この動きはある程度仕方がないと思います。

—私たちコミュニティサイトのサービス提供者は、コミュティ運営と同時にビジネスを行い、他社との競争にも打ち勝っていかなければなりません。そのため、技術開発はもちろん、よりよいサービスの提供や、人材育成もしていかなければならないわけです。また、次世代を守り、育てていくことにも当然、責任がありますし、これは実際、社会の要請として問われていると感じています。これらをバランス良く進めていくには民間の共通スキームも必要なのでしょうか?

そういうことですね。どうしても何かを規制しようという話になると、国が主導して上から全部押し付けてもらったほうがラクだという発想になりがちだと思うんですが、民間団体が共通でスキームを推進していかなければいけないと思います。コミュニティサイトというのも、千差万別であり、新しいところがどんどん生まれてくるわけで、国のようなところが上から一括で制限してしまうと、新しいものが出てこなくなってしまうと思うんです。ネットというのは社会の多様性の鏡みたいなところがあって、社会の中にあるコミュニティの種類だけ、コミュニティサイトというのはあるはずでしょう。そう考えると、まだまだコミュニティサイトは種類が少ないと思います。それこそ高齢者のためのコミュニティサイトがあったりしても良いでしょうし、幼児のためのサイトがあっても良い。

民間の共通スキームを作るのに、協議会を作っても良いと思いますが、新しいものが入ってきた時に審査する、以前のプロ野球の時のように新参者だと入れないみたいなイメージになると良くないですよね。日本のコンソーシアムとか協議会というのは、どうもそういう傾向になりがちで、なかなか難しいですね。

今、iPhoneのようなスマートフォン界隈でも、何かしらの新しい形態のコミュニティが出てきて、あれはどうすればいいんだという話もありますし、常に新しいサービスにも対応していかなければいけない。そこで大事なのは、多様性を決して制限する方向にいってはだめだということです。

※3 コミュニティサイト、ブログサービスなど複数のサービスで共通してIDを発行し、そのIDと氏名、住所などパーソナル情報を結びつけ、書き込み等の責任の所在を明らかにさせるという構想。

安心から信頼へ 日本的なコミュニティサイトの利用

—以前に、濱野さんが宇野常寛さんと対談された時に、アメリカのコミュニティサイトについて取り上げ、日本とアメリカとの文化の違いについて話されていましたが、これについてお聞かせください。

ひとことでいうと、日本は集団主義で、アメリカは個人主義、という昔からよく言われていることです。日本のネットコミュニティの特徴は、集団や場が主人公になっていくんですね。たとえば日本の2ちゃんねるは、2ちゃんねらーという集団が主体なのであって、そこでは一人一人の個人は集団のなかに溶解している。別に特定の名前を持って個人として自立している必要はないわけです。それに対してアメリカのネットというのは、ブログにしてもFacebookにしても、実名をさらして個人どうしが結びついていくイメージ。そういう違いがあるわけです。

日本でもたとえばmixiは、個人対個人じゃないかと言われるかもしれませんが、mixiで実名をさらす人というのはけっこう少数派ですし、匿名文化の強さというのを考えると日本とアメリカでは大きく異なるわけです。

これは先ほどの若者のケータイ規制の話とも関係するんです。近代社会というのは、個人の自由を全員にも与えて、何か悪いことすれば、責任を問われるという基本的な原則でやっている。でも、そこで日本人はどうしても集団主義的な方向へ傾いてしまい、それで匿名サイトのようなものが普及してしまう。すると個人としての自立が促進されない。若者にも自由と責任を認めないという発想にいきがちになる。

日本はもちろん近代社会の法治国家なので、基本的には個人の自由と責任を認める発想でやっているはずなんですが、どうしても集団主義の風習が残ってしまっていて、それで話がややこしくなってしまうんですね。

—日本では自己責任についての教育が弱いようですね。

そうですね。その問題は、はっきりいって学校制度そのものを変えないとなくならないと思います。学校裏サイトを若者がやっているイメージは、すごく日本社会らしいと思うんですよ。大半の裏サイトは別に問題があるわけではないですが、ごく稀にいじめとかに発展する。でも、別に学校裏サイトだけが非難されるべきものなのかどうか。だって、大人は大人で、2ちゃんねるのような匿名空間で、陰湿なコミュニケーションをしているわけですよ。ある種、その合わせ鏡として学校裏サイトというものが子どもの世界にも現れてしまっているだけだと思うんです。

—子ども達の中でプロフが流行ましたが、あれは、個人を打ち出すことが前提のサービスですよね。思春期の頃の、自分を見てもらいたい、どう見られているのかという気持ちとリンクしてヒットしたということもあるように思うんですけれど。

確かにそういう側面はあります。でも、それはどちらかというと、社会に対峙する「個人」としての自分を打ち出すというよりも、あくまでクラスの中の「キャラ」を演出する、という側面が強いと思うんです。

じっさい、高校生に話を聞いてみると、プロフを使ってグループを作るそうなんですね。学校内で仲良しグループを作って、それが3人だったら3人のプロフをリンクしただけのページを作る。それを使って、特に何をするわけでもないみたいなんですけど、とりあえず作る。グループを作る時のある種の契約書というか、記念というか、そのためにプロフを作るんです。

ここ数年、『涼宮ハルヒの憂鬱』 という若い人のあいだで人気の作品があるのですが、それがまさに、そういう話なんですよ。細かい説明ははしょりますが、この作品では、最初に「SOS団」というグループを作るんです。中高生に話を聞くと、どうやらみんなハルヒのまねをしてSOS団を作ったりしている。まあ、これはあくまで一例にしか過ぎませんが、つまりプロフは、自分を知らない人たちに向けて自分を紹介するものというよりは、あくまで教室の中でのキャラ設定を演出するものとして使われているんですね。

これに対してFacebookなんかはプロフィールも実名だし、見知らぬ人が沢山いる社会の中で、一個人として自分を紹介していくというイメージですよね。日本でのプロフはあまりそういうイメージではないと思います。ただ、ごく稀に、若い人のなかでも、ネットワークを活用して人脈をバリバリ広げていろんなところに行く人もいますけど、大半は教室の中で人間関係の範囲は閉じている。でも、たまたま、知らない大人とかに見られて出会い系に使われちゃう、というのがプロフのイメージなのかなと思いますね。

—日本の若者は、とても日本的なコミュニティサイトの使い方をしているんですね。

日本の教室制度って1年間、または3年間同じメンバーで、基本的に授業は選択制ではなく、30人が同じ空気を維持したまま生活していかなきゃいけないわけです。そうすると、教室内っていうのはすごく息苦しくて、ストレスの原因になる奴はいじめられやすくなる。よく、いじめ問題を解消しようと研究されている方の提案の一つに、授業選択制を導入すべきだ、というものがあります。大学だと、自分で授業を選択して、いろんな友達と会うわけですよね。そういうふうに、人間環境の流動性を高める手段をどんどん義務教育の段階から入れていくべきだというわけです。そうすれば若い人たちも、プロフをクラスのみんなが知らないという前提で使うようになるでしょうし、若い人達のネット文化もまた違ったものになると思いますね。今の教育制度のままだと、固定された人間環境のなかで、そこで作られた自分のイメージをプロフに書いていく使い方しかないんですよ。

ちょっと、話がずれてしまうんですけど、私は「安心・安全」という言葉のニュアンスが好きじゃないんですね。官公庁なんかではよく使われていますけど。この言葉はある種、日本社会を象徴しているんだと思うんです。

というのも、社会心理学者の山岸俊男さんという方が、『安心社会から信頼社会へ-日本型システムの行方』の中で、「安心」と「信頼」という2つの言葉を分けて、日本は安心社会、アメリカは信頼社会だという議論をされています。それは要するに、「どういう人なら信頼できるのか」という人の信頼度を判断するメカニズムは、日米では違うという話なんですね。アメリカは人間関係がすごく流動的な社会だから、個々人のレベルで相互に信頼しあっていかないといけない。だから「この相手は信頼できるかどうか」というのを判断するためのスキルが高まっていく。一方、これまでの日本は、人間関係の流動性が低くて、するとどうしてもムラ的な集団意識が強くなるから、いちいち個人単位のレベルで相手を信頼するのではなくて、「みんないっしょに長期的な人間関係を築いてきたから、とりあえず安心する(みんな裏切らないはずだ)」という人の信頼の仕方をするのだ、と。山岸さんは「やくざ型信頼」というような言葉も使ってましたけれど、日本人というのは、「常にずっと一緒だから、空気も分かっている」というファミリーのような関係を発達させすぎているというわけです。これを、「安心社会」だと山岸さんは呼ぶわけです。

まさにこの話は、日本とアメリカのネット文化の違いをよく言い当てていると思うんです。日本だと、みんな2ちゃんねるを使っていて、言葉遣いもいっしょだし、みんな空気を共有できている感じだから、安心するわけです。それでずっといっしょに行動するわけですよ。それは若い人たちのネットの使い方も同じ。日本の学校制度というのは、1年間、下手すると3年間、クラスメイトは変わらず仲良く安心の関係をつくらないといけない、という環境に置かれてしまう。すると、その延長でネットも使われてしまう。このことをよく抑えておかないと、ネットの仕組みだけを無理やり個人主義的なものだったり実名必須ものに変えたりしても、あまり意味がないと思うんです。

最近、原田曜平さんという方の「近頃の若者はなぜダメなのか」(光文社新書)という本を読んだのですが、そこでも同じようなことが指摘されていました。若い人たちはよく隠語というか、独特の若者言葉を使いますね。それはマフィアと同じなんだと原田さんはいうわけです。マフィア映画を見ていると、とにかく彼らというのは隠語が多くて、ポジティブ、ネガティブなことでも、たとえば「そんなこと忘れろよ」というような言葉を使うのだ、と。結局、マフィアというのはファミリーどうしでずっと一緒にいるんだから、いちいち言葉で言わなくても分かるだろ、というコミュニケーション作法になっている。今の日本の若者も、それと同じ。何をやっても「ヤバイ」。ネガティブなこともポジティブなことも「ヤバイ」で処理しちゃう。ずっと同じ関係で、空気分かっているという前提でしゃべっているからそうなっちゃうんですね。これはまさに安心型社会の特徴なんですね。つまり、若者のネット利用がもし問題なのだとしたら、それは実は、日本社会という安心型社会そのものの問題なんです。ネットの問題は、あくまでその一部でしかない。

だから私の考えでは、若者からネットやケータイを取り上げるというのはやはり論外なんですよ。若者には、もっと「信頼社会」的なコミュニケーションをもっとPCなりケータイなりでやるように促さないといけない。ケータイメールやmixiでクラスの友達とコミュニケーションしているばかりではなくて、自分にとって役立つ情報や人脈をネット上で開拓していくスキルを本当は教えるべきなんです。

それから、「安心」という言葉は、親が困らないようにといった意味で使われているように感じます。この言葉からは、親に面倒を起こさないでくれというニュアンスを感じませんか。でも、子どもがいろいろ成長していくためには、そりゃ親も困るくらいのことをしていかないといけませんよね。それこそ免疫をつけるためには、少々の危険を体験する機会も必要でしょう。でも、ネットリテラシーを教えるといっても、日本社会は基本的に安心社会で、インターネットを活用して個人同士がどんどんつながっていくことに寛容な社会ではないわけです。日本社会における大人というのは、基本的に組織の人間であって、組織の枠を超えた個人として渡り合っている人というのは少数派ですよね。そんな大人が、ネットを活用するリテラシーを教えるっていうのはそもそも矛盾しているんですよね。むしろ、日本社会の大人は、信頼社会的なネットリテラシーを教えることはできないという前提でいかなければいけない。だからいろんな問題をややこしくしちゃうという気がする。

ただ、視点を少し変えますと、少なくともこれからの日本社会は、産業/工業型の社会ではなく、情報知識を創っていく社会の方向に向かわないといけないといわれるわけです。クリエイティブ・エコノミーとか言われていますが、これからは明らかにコミュニケーションの重要性は増すわけです。今までは、フーコーじゃないですけれど、工場でずっと働くということを前提に教育していた。常に黙々と仕事をし、権力に唯唯諾諾と従うみたいな。でも、少なくとも、今後もある程度の豊かさを日本社会が維持したいのならば、そういう人間を産み出してもだめなのであって、教育の現場も変えていかなければならない。変な話、授業中にどんどんおしゃべりしまくっても良いから、とにかく面白い発想ができる奴がばんばん出てくるような仕組みにしないといけない。そういう方向に教育制度が変わってもいいんじゃないかと思いますね。

—非常に壮大なテーマですね。

そうですね。でも、実はネットの話というのは、少し突っ込んでいくとそういう領域に入っていくんです。

—どっちが先かという話になるかもしれませんが、ネットは社会の鏡ということであるなら、社会が変わるのが先ということですね。

ええ、そういうことなんです。

コミュニティサイトの運営について社会全体の課題として捉えるために

—コミュニティサイトを運営していくということは、政治的な側面も、力量もいると感じているんです。現状として、コミュニティを継続、発展させていくだけの学問的知識が不十分だと感じるんです。常に現場で試行錯誤して積み重ねてきた経験はあるんですけれど、これだけ大きくなってくると、私たちだけではなく、もっと社会全体で考えていかなければならないんじゃないかと思うわけなんです。コミュニティサイト運営者として、どのように考えて行けばいいのか、どうやって社会全体で考えていけば良いと思われますか。

難しいですよね。例えば、言葉遊びのレベルですが、コミュニティサイトという表現そのものから変えていく必要はあるのかもしれません。最近だと「ソーシャルメディア」と言ったりしますけれど、私の考えではインターネットは社会そのものなのであって、コミュニティサイトと言ってしまうと、どこかの小さな世界の話になってしまうかなという気がします。だから、名前から変わる必要があるかもしれないですね。

—なるほど。

でも日本では、ソーシャルメディアっていってもTwitterで仲間内でつぶやいているだけだろ、という印象があって、すごく狭いイメージなんですよね。これは社会学をやっていた人間からすると、「社会」という概念そのものがどこかおざなりになってしまっているような気がするんですよ。

社会学というのは、ちょうどヨーロッパでフランス革命が起きた後くらいに生まれた学問なんですね。この時期から、今でいう国民国家という社会の単位ができてきました。市民がそれまでの権力を倒して市民の権利を確保して、いろんな主義主張の人がいる中で、それぞれの意見を認め合って何とか折り合いをつけていくという社会の仕組みを作っていったんですね。ヨーロッパの伝統を踏まえていれば、そういう状態をもってはじめて社会と呼ぶんですよ。多様な人がいて意見が対立し、価値観も対立し、それでもやっていくという、多様な集合体というイメージです。

でも、日本ではその集合体が、すごく均一であるというイメージがまだまだ強い。複雑で多様な人たちが集まっているという社会のイメージをまだまだ共有できていない感じを受ける。結局、そういう状況である限り、インターネットの問題を社会全体の問題としてとらえることなんてできないわけです。たとえば、普通の大人から見ればギャルのような理解できないような人たちも、ネット上では参加していて当たり前と考えられるかどうかが、実は一番大事なことなんです。

大人がイメージする安心・安全なネット環境を作るという発想は、極端なことをいえば自分たちと価値観の違うやつらはけしからんから全部ダメだ、という感じがするんですよ。それでは、とても社会全体でネットのことを考える状況にはならないですよね。最後はどうしても大きな話になってしまうんですけれども、要するに日本社会って、そもそも「社会」なのかという問題に行きつくんです。ネットの問題を考える前に、まずは私達の「社会」のことを考えなければいけない。私はそう思うんです。

話がずれちゃうんですけど、これはまだまだ先の課題だと思いますが、日本社会で移民を入れるかどうかというのはすごく大きなポイントになると思います。具体的にいうと、移民を入れるとネット社会はどう変わってくるのかという問題が出てくると思うんですね。中国や韓国から来た人は、ネットコミュニティを非常に活用していて、いらないテレビをネット上でやりとりしたり、日本社会の仕組みについて情報交換していたり、すごく活発にやり取りしているんです。これはすごく重要な話で、そういうことを含めて全体で考えていけるのかというと、日本社会は全然そのレベルにも行ってないというか、まだまだ厳しいですよね。

—コミュニティサイトの運営者は社会学的知見で物を見ているわけではなく、現状では、社会の行く末を考えてコミュニティの機能を作ってはいないですね。そういう事を含めて、今後は考えてかないといけないわけですが、それにはあまりにも教育の場や時間がなかったり、セッションがないんですよね。思想と分離したままの形でサイト運営だけ先に行くと、いずれパニックになるんじゃないかなと思うんですよ。専門の方とか、研究されている方達と一緒に物事を考えていければいいのにと思うんですけどね。

確かにそうですね。でも、まだまだこれからなんだと思います。

たとえば、アメリカのハッカー系の人たちの例をあげると、ハッカーというのはすごく政治的意識が強くて、社会に向けて積極的に発言もしていくというイメージが強かったんですが、何も初めからみんなそうだった訳ではないんですね。1990年の初頭に、アメリカの電話網が全面的にダウンした事件があって、その時にハッカーのせいじゃないかとあらぬ疑いをかけられ、アメリカ中のハッカーが一斉に家宅捜索されたことがあるらしいんです。このまま悪者扱いされちゃ困るということで、彼らの一部が立ち上がって電子フロンティア財団を設立し、社会に向けて公共的な発言をしていくようになったという話を読んだことがあります。要は、ハッカーといってもはじめから社会的な意識が強かったわけではなく、ある意味での外圧というか、権力にいきなり家宅捜索されてやばいと思ったのがきっかけだったんですね。日本でも、なにかしらそういった事件をきっかけにしないとネットのことを社会的に考える機運は出てこないんだと思います。

—アクセス制限は、コミュニティサイトにとって、打撃が大きかったですね。

そうですね、確かに。

—制限されたことで逆にみんなで必死に考えるようになったということはありますね。

そういう事件が起これば、何だかんだ言っても社会が変わるきっかけになると思います。業界にとっても、日本社会全体で考えるっていうのは事件ベースでないと考えない。

もちろんこれはわざと事件を起こせばいいという意味ではないんですけれど、日本でもインターネットが普及して十年以上ですから、何かそういったことがきっかけとなっても良いかもしれません。アメリカだと、Googleが中国に進出し、中国政府による干渉にあって、議会が反応するんですよね、あれってすごくアメリカらしいというか。ある意味で言うと、アメリカはどこまでも世界中に進出していく乱暴者だともいえるし、自分たちの民主主義的な理想を意固地なまでに押し付けていって、それに反発する国には過激に反応する。だから社会的な意識もすごく高まるわけですよ、いいか悪いかは別として。

ただ、日本では世界に進出するようなウェブサービスもないし、パソコン系サービスはアメリカで流行っているから真似しました、というものが多いし、あまり理念を持ってやっているという感じもしない。この辺が辛いところです。どうしても遅れを喫してしまう。内発的にやっていない感じになるので、理念的な話は後から付いてくる感じですね。Googleなどは初め学生がちょっと初めたビジネスだったわけですが、「世界の情報をすべて体系化する」というように、非常に高邁な理念が初めからあるわけです。そういうネット企業が日本からどれだけ出てくるかも、すごく大事なポイントになってくると思います。

ネットの3年後5年後、コミュニティサイトのあるべき姿

—デジタルネイティブと呼ばれる若い人たちがさらに成長していく、3、5年後、状況はどう変わってくるのか、どういうイメージをお持ちですか?

そんなに先の話ではないですよね。3、5年後か、どうだろうな。10年だと予測不能の感はありますね。いまはまだ普及している感じはしないですけれども、オーギュメンテッド・リアリティ(拡張現実 以下ARと略)が最近注目されていて、もし普及するとしたら、いまネット上で行われているコミュニケーションを、リアルな空間でオーバーレイしながら行える状況になる可能性はあると思います。

ただ、いまのARというのは、携帯カメラをかざすと、そのビルの名前が何だとか、どっちの方向に行くと駅の入り口があるだとか、そういった現実空間のメタデータを補完するサービスが大半なんですね。でも、私が今後普及する可能性があると思うのは、人間同士のコミュニケーションで使われるARですね。たとえば、空気を読むツールとしてのARなんかは日本ではいかにも流行りそうだな、という気がします。カメラを大勢の人の集団にかざすと、その場にいる人の年齢・名前や、どの人同士が友人関係にあるのが瞬間的に分かるとか、いまでもすぐに実現できそうなサービスですね。カメラを使って人間の顔をQRコードのようなマーカーとして個体認識すればいいわけですから。あとは、会議中に、その場に入る人たちの目線の動きをカメラで自動認識して、どれぐらい自分の話をみんなが聞いているのかが分かるとかですね。普通は、そういうのは場の雰囲気で、「あ、みんな話聞いてないな」「俺の話すべってるな」ということを読み取っているわけですが、それをデジタルで読みとってしまう。こういうのが出てきたら流行るんだろうなという気がします。ARというのは現実を強化するという意味ですが、そうではなく社交的なコミュニケーションを強化するようなツールとして、ARは発展していくのではないか。いわばソーシャルARですね。

3年後は無理ですけれど、5年後ぐらいだったらありうるのかもしれません。でも、これは当然プライバシーを侵してしまうという点という大問題になると思いますよ。今でも、ちょっとした個体認識はデジカメやiPhoneでも出来ているので、リアルタイムで出来るようになるのは時間の問題じゃないですかね。AR系の人は、あまり人間の顔を認識して云々というのは現時点では考えていないようですけど、そうなっていく可能性はある。だからいまからしかるべき準備をしておくべきではないかと思うんです。

たとえば、こんな問題はすぐに起こると思うんです。というのも、いまから2・3年前、初めてドワンゴさんが「ニコニコ大会議」というイベントを行った時、3,000人集まった会場で質問をした人がいて、その場の大画面モニタに映ったんです。その人は、ちょっと失礼な話なんですが、髪が薄かったんですね。そうすると、彼が画面に映った瞬間、ネット上でそのイベントの中継動画を見ている人たちが、コメントで「ハゲ」とばんばん入力してしまったんですよ。そしたら、会場でも思わず大爆笑が起きてしまった。

まあ、これはしょうもない事例だと思われるかもしれませんが、ARが発展していくと、こういうことが街中で頻発するようになるかもしれない。ニコニコ大会議のときは、その人も大変にユニークなキャラの方で、特にオオゴトになることもなく盛り上がってしまったんですが、やはり人に向かって「ハゲ」とか匿名のコメントを付けるのは無礼ではないかという批判もあって、ネット上で問題になったんですね。このときはまだ3000人の、しかもニコニコ動画ユーザーだけが集まる場所だったからいいのですが、ARだともっと全面的に、より直接的になると思います。いつか必ず問題になるでしょう。

あとは、ソーシャル的なARを使えば出会い系などに簡単に利用できてしまいますね。「こういった人と出会いたい」というのが瞬時に分かってしまう。これも必ず問題になるという気がする。

結局、難しいのは、こういうサービスが出てくるということはある程度予測はできるんですが、社会全体で考えるという機運が高まるよりも先に、サービスのほうが先に急成長してしまうんですよね。ネットの場合。ネットサービスの特徴は、なんといっても急に普及するところでしょう。魔法のiらんどもしかり、ミクシィ・モバゲー・Twitterもしかりと、さあ対策しようとしたらいつの間にか会員数が物すごく増えているというのが現実です。それは今後も変わらないでしょう。

—これからは、もともとの作りこみ、コミュニティサイトを設計するところからはじめないといけないんですね。ますますコミュニティサイトのあるべき姿が重要になってくると思います。そこで濱野さんが考えるあるべき姿とは?

さきほども、日本社会ってそもそも「社会」なのか、ということをいいましたけれども、私が理想とするネットのイメージというのは、複数のコミュニティサイトが無数にあって、多様に共存しているようなイメージが理想なんですね。つまり、複数のコミュニティが寄り添って、社会という多用な集合体を形成しているという姿。それが私の考えるコミュニティサイト群の理想のあり方なんです。

ただ、そこに付け加えるとすれば、コミュニティというのは共同体という意味ですから、本来は「地域共同体」のように、歴史的伝統がすごく強固で、その土地に昔から根づいているもののことだと思うんです。もはや日本では失われつつあるという、地域共同体のイメージ。村のなかに神社があって、そこに大きな木があって、毎年祭りが開かれて......という暮らしを何百年も繰り返しているイメージでしょうか。コミュニティというのは、かつてはそういうことを意味していたわけです。

つまりコミュニティというのはなんといっても長きにわたって生き残ることをその本義としているわけですから、果たして今後、そういう長期間生き残るネットコミュニティは出てくるのかが重要なポイントになるんだと思います。ネットはとりわけ変化が速いですから、逆にその変化に抗う、伝統的なネットコミュニティというのははたして存在しうるのか。ここが今後の試金石になると思うんです。

たとえば私は一ユーザーとしてニコニコ動画というサービスが好きなんですが、はたして自分が70歳になってもやっているかなと考えてみると、なんとなく、今の感じだとやっているような気がするんです。そのぐらい、ニコニコ動画では強烈に面白い体験をしてしまっているんですね。ある種の人格、主体性もネットサービスが作ってしまうことがある。そうなってくると、それは本来のコミュニティに近付いているということなんです。

もちろん、ネットサービスというのは常に急成長していくので、その時々では対応が求められます。でも、究極のところどうすればよいのかというと、世代を超えてそのサービスが長生きすれば良いんですよ。たとえば、親も子どももmixiを使っている、そうした世代を超えた輪が広がっていけば、時間が解決してくれるものがあると思うんです。本来、コミュニティってそういうものだから。三世代が同じ土地に暮らして、昔からの知恵をおばあちゃんが教えてくれる。そういうものとしてはたしてネットコミュニティが日本社会に根付くことができるのか。それがつまるところ全てなのかもしれません。

もちろんネットサービスには今後も課題はたくさんあって、未来の行く末も読めないところが多々あるんですけれど、いまあるネットサービスが今後10年、20年と生き残っていくのか。新しいサービスもどんどん出くるし、消えて無くなるサービスもあるんだけど、その内のいくつかは、長く生き残っていかないといけない気がする。そういうことでいえば、ネットコミュニティのあるべき姿というのは、とにかく長期間生き残るということなんではないかと思います。

—魔法のiらんどはサービスを開始して今年で10年経つんですよね。2ちゃねると同期生なんです。その間、どんどん変遷してきたんですね。コミュニティサイトは常に変わっていかなければならないところがあるんです。大きいサイクルで変わる時は大変ですが、コミュニティサイトは長く生き残るべきというお話に勇気づけられました。濱野さんのお話に、新しい視点がひらかれ、非常に納得しました。今日はどうもありがとうございました。

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