このページの本文へ

このページの位置:
ホーム > 情報モラル・リテラシー教育 / インターネットの安心・安全をめぐる動き > コミュニティサイトのあるべき姿

「コミュニティサイトのあるべき姿」
武蔵大学准教授 粉川一郎氏インタビュー

カテゴリー: 情報モラル・リテラシー教育 / インターネットの安心・安全をめぐる動き

ネットは最後のフロンティア

ネットの現場を歩いてこられた武蔵大学社会学部メディア社会学科の粉川一郎准教授はネットの人格と現実の人格は別と考えるべきで、年齢などで切るべきではないと述べる。ネットの社会を一つの新たな社会として捉えたとき見えてくるものは何なのか。ネットと現実のあるべき姿を語ってもらった。

武蔵大学准教授 粉川一郎氏

粉川一郎氏
武蔵大学社会学部メディア社会学科准教授
1971年(昭和46年)生まれ
1997年 筑波大学大学院修士課程環境科学研究科修了
1997年~2009年 藤沢市市民電子会議室実験世話人
1999年~2003年 三重県生活部NPO室市民プロデューサー
2000年~2007年 (特活)コミュニティ・シンクタンク「評価みえ」代表理事
著書(すべて共著)に『協働と市民活動の実務』ぎょうせい、『NPOと行政協働の再構築』第一書林、『多様化するメディア環境と人権』御茶の水書房『現代地域メディア論』日本評論社等がある。

粉川先生とは、文部科学省の熟議運営委員としてご一緒させていただいています。まだお若いのに、NIFTYのフォーラムの時代を経験されており、運営委員長として的確なアドバイスをされています。初めにお会いしたときからいつか必ずじっくりとお話をお聞きしたいと考えていました。今回もネットの世界そしてコミュニティ運営をよく熟知した観点からお話くださり、大変参考になりました。ぜひ皆様お読みください。

ネットを子どもから守る

—粉川先生のご専門はどの分野となりますか?

ネットコミュニティやネットコミュニケーションのあり方が現実社会のコミュニティ構造やコミュニケーションとどう同一性があるのか、あるいは違うのかということが関心領域になるんですけど、学者としてはその分野ではなくてNPO論の学者としての専門となっています。そういう意味ではネットについては学者というより現場の人という位置づけが正しいかもしれませんね。ですから、今日はそういう立場でお話しさせていただきます。

私はNIFTYの時代からネットコミュニティに携わっていまして、NIFTYフォーラムの自動車フォーラムでサブシスオペ ※1 をやっていたんですね。95年にNIFTYが主体になって金子郁容先生や松岡正剛さん等の協力を仰いでつくっていたネットワークコミュニティ研究会に参加しました。当時は大学院生だったと思いますが、ネットフォーラムについて考えようというネットコミュニティフォーラムのシスオペもやっていたんですよ。その後、藤沢市市民電子会議室に携わってきまして。どっちかというと現場を歩いてきた。だからネットコミュニティ論を専門と言っていますけど、純粋な学識研究というよりは現場を歩いてきたという感じですかね。

—文科省の熟議カケアイの委員であり、運営のコーディネーターもされていらっしゃいますね。

熟議での最初の議論は、実際にどういうシステムで運営体制を作れば良いのかというものだったので、金子先生にその辺りを手伝ってもらえないかということでお声がけいただきました。だから私の立ち位置的にはネットコミュニティを運営する側になると思います。

—青少年が牽引するネットサービスの利用について、大人側からは石川県の条例、東京都条例案等、規制するべきだという方向が示されていますが、どのようにお考えですか?

例えば、石川県条例では、携帯電話を持たせないという話が出てくるじゃないですか。これに私は、6対4で賛成なんですよ。ただ賛成の理由で一般的な考え方と違うのは、守るのはネットであって、「ネット」を「子ども」から守らなければならないと考えているんです。私が非常に危惧していることは、ここ15年でネットワーク上のコンテンツの質が非常に下がってきている事なんですね。特にコミュニティサイトだけではないですけれど、ユーザー側から発信される情報の質が下がっている。あるいは、どの程度明確な根拠に基づいて書かれているかの信頼性が非常に下がってきてもいる。調べたい時にヒットする情報が有益なものである確率が下がっているんですね。日記サイト、ブログが増えてきた時代、最近ではTwitterの書き込みが増えてきた時代と、どんどん情報の質が落ちてきている。

日本では無視できない存在である「2ちゃんねる」でも書き込みの内容は、以前は、ある一定基準での暗黙の了解があったように思いますが、今はそうしたものもなく、発言が暴走している感があります。

原因は、いくつか考えられると思いますが、一つには、インターネットユーザー数の爆発的増大があげられます。その責任の一端が子どもたちにもあるんです。もちろんお年寄りもいけないですよ。あまりリテラシーの持っていないおじちゃんおばちゃんがネットを始めてというのもこうした混乱の原因になっていると思いますが、本人が被害を受けるかどうかはとりあえず置いといて、ネットワークというものを知らないままこういう場に入ってきて書き込みをしているわけです。子どもの素直な意見なら良いですけれども、そこでネットという、本来は知性の集約であるべき場に単なる思い、的なものが出てくることがネットの質を下げていっているように感じます。私は、純粋に、ネットというものはバックグラウンドである人間性、年齢、男女、社会的地位あるいは学識など、一切関係なくコミュニケーションをとれる場だと理解しているので、ある程度、ネット上でのリテラシーが成熟している、いわば「ネット上の大人」になっている人だけが使うべきだと考えているんです。子どもたちがそうした場に無邪気に入ってきて、だけど表面上、それが子どもなのかどうかが分からない人が混ざってくることで、混乱というか、全体としての議論のレベルが下がってしまう。そういう意味では子どもがネットに参加しないように携帯電話を持たせるなという意見に100%反対とは言えないなと。ネットを守るっていうのはそうした意味で言ってるんですよね。

—今、携帯とPCの境目がなくなっていますよね。携帯の方は年齢制限があったりデフォルトでフィルタリングを入れられたりするんですけれども、インターネット自体ももうすぐ携帯と近いレベルで制限がはいる可能性も出てきますよね。より、規制が拡大するというか...。

そういう意味では、携帯とPCの世界が違うという今はいびつな状態だと思います。実際問題としていろんなサイトが両方からアクセスでき、融合は進んでいて、携帯独自の場というのはなくなり、境目は消えていく。そうなっていった時に子どもたちに携帯電話を持たせる持たせないのレベルの話ではなくなり、ネットを子どもたちにどう使わせるかという、5、10年経てばそういう議論になるでしょうね。

そうなってきた時に子どもに自由にネットを使わせるのかというと、私はあまり賛成できない。ただ、それが12歳なら良い、15歳なら良いのかとかではなく、それは30歳でも40歳でも一緒で、ネット上に自分のアカウント、ブログ、Twitterのアカウントを持って情報を発信し、そこに誕生しているネット上の人格が成熟しているかどうかが問題だと思うんですね。それは、本当は実際の年齢とは全く関係ない。ネット上の人格が成熟している人であれば、現実社会では10歳でも問題はない。でもそれができない現実社会の40歳はご退場頂いた方が良いということです。

そうなると、私達はネットコミュニケーションの歴史の中で、ネットの中で発言する、あるいはコミュニケーションをとる人物をどう育ててきたのかという話になりますよね。どうしても温故知新になってしまうんですけれども、NIFTYの時代の話とか、インターネットの初期、「ニューズグループ」の時代というのは、既存のユーザー側が新参者のユーザーにコミュニケーションの取り方をナビゲーションしていました。

例えばNIFTYであれば、どこのフォーラムにも必ずフォーラムに初めて来た人用の部屋があって、そこであいさつをさせて、その人がどういう関心を持っているかメッセージを出させ、それを既存ユーザーや、シスオペや、会議室の議長などがフォローし、ここの会議室にいけば面白いよ、といったナビゲーションを非常に丁寧にやっていたんです。少なくとも私がいた自動車フォーラムでは、新規参加者の歓迎のための専門スタッフを置いていました。そういう中で右も左も分からないユーザー達が短期間である程度のコミュニケーションのやり方を身につけるというプロセスをとっていたんです。「ニューズグル- プ」の場合はちょっと手荒かったように記憶しています。変な所があると、古参ユーザー達がよってたかって怒り出し、ネチケットを読んでこい、など厳しい感じでした。それでもそうした行為がユーザーを育てて、強くしていった。

現状ではユーザー数の違いがあるので、そういう場を単に準備するだけではすまないでしょう。むしろ、単なる場の整備より、初めてのユーザーにある程度、自分の時間を割き、コミュニケーションしながら学ばせる、ナビゲーションする人達が必要になってきます。そういう人達がいれば、変な話5、6歳からインターネットを使っても構わないと思います。

リアルな社会での年齢とかバックグラウンドと関係なく、現実とネット上での私というものには線を引くべきだということなんです。私は、ネットは一つのまったく新しい社会だと思っていますから、既存の現実社会の人々が、ああすべき、こうすべきと干渉するのではなく、ユーザーの中からインターネットに貢献していけるような人材を作りだすにはどうすべきかということを考え、独自のシステムを作るべきだと考えています。昔の社会で言えば、小さい頃は子ども組に入り、青年組に入ってお祭りの準備をして、壮年組に入るわけです。年齢階梯集団 ※2 のような仕組みで成長していく。ある程度コミュニティの成員たらしめるステップを社会システム的に構築していったんですよね。インターネットの中にもそういうシステムを置くべきだと思うのです。私はネットの中で、独自の教育システムと人々を受け入れるためのトレーニングというかコミュニケーションの機会の場が提案されていくべきだと考えています。本来はそうしたことが、コミュニケーションサイトに求められる視点じゃないかと思っています。

※1 サブシスオペ・シスオペ:(サブ)システムオペレーターの略。インターネットのBBS(電子掲示板)やオンラインデータベースなどのホストシステムを管理している人。システム加入者の質問・要求に応えたり、全体にインフォメーションを提供したりする。

※2 年齢階梯制(ねんれいかいていせい)村落や部族などで、全成員を年齢によっていくつかの階級に分け、それぞれに特定の役割・機能を分担させ、全体としてその集団の統合を図る社会制度

コミュニティの価値を見出す グランドデザイン

—コミュニティサイトとしての成長の仕組みは、現状のネットの中で自発的に生まれていくものでしょうか?それとも提供者側が企業としてある程度、整えていくべきなのでしょうか。

自発的にというのは難しいですね。既存のネットサービスというものが企業中心に回りすぎたと考えています。15年前なら自発的にできたし、現在でもぼやっとした組織形態である2ちゃんねるならできると思うんですけれども、大多数の、特に青少年が使うようなサイトというのは、携帯の囲い込みモデルの中で参入してきた企業によって作られてしまったという面があります。だからユーザーの自発的なものを期待するより、携帯に限らず、運営する側の企業がネットというものに夢を見出してほしいんです。自社の携帯サイトでどういうコミュニティの中で、どのようなコミューケーションが行われ、それがどのような価値を生み出しているのかを見てほしいですね。

昔、自治体が電子掲示板とかを作っていたのですが、たいていそれは失敗してしまいました。「市民がどのようなコミュニケーションをネットで行って地域のためにコンテンツ、物を生みだしていくのか」というコミュニケーションのグランドデザインが描かれてなかったんですよね。単に掲示板を設置しただけ。本来は、ネット上のコミュニケーションがどんな成果を生み出すか、その成果を生み出すまでのプロセスみたいなものをきちんと考えなければいけないと思います。グランドデザインがあれば、それに合わせてどんな掲示板のシステムを採用し、どういうファシリテーションをする体制をとるかを考えていけば良いのですから。

そういう意味で、既存の携帯サイト等を提供する会社側でコミュニケーションのグランドデザインという視点を持つ必要がある思います。たとえば、ユーザーが一対一で親密になる場を作りたいのか、それとも10人、あるいはそれ以上の大規模なコミュニティを作りたいのか、それとも単純に情報をブロードキャストして、多様な人々の知識や生活の知を共有させたい思っているのか、様々な自社のサイトが作り出すコミュニケーションの新しい価値をある程度イメージして頂ければ、それに合わせてどういう管理をしていくスタッフを用意すれば良いのか、それともボランタリーにお手伝いをしてくれるユーザーを発掘をしなければいけないのか、というストーリーになっていくと思うんですね。

私が不勉強なのかもしれないけど、既存の企業にはそれが見えない。

—ネット上のそういったマイニングや、リテラシー教育のためのナビゲーションを行っているところもあるけれど、その仕組みは意外と知られていないですね。日本のコミュニティサイトとアメリカのサイトを比べてみると、アメリカは理念がしっかりとしている企業が多いですが、日本のサイトはその理念が見えにくいかもしれませんね。

本当は圧倒的に、テキストベースのコミュニティ作りは日本の方が長けているはずなのですが、そういう理念をパソコン通信からインターネットに移行するとき無くしてしまったという所があります。特に、私が良くないなと思ったのは1996、97年頃にパソコン通信がすたれてインターネットへ移行する時、コミュニティサイトとしてしっかりとした理念をもつ受け皿がインターネット上になかったんですね。結局あめぞうから2ちゃんねるへの流れへということになってしまった。

ネット上に、もう少し、おせっかいを焼く人を貼りつかせることが必要なんですね。彼らに対するインセンティブっていうのは、そのネットコミュニティの中で一目置かれていたり、顔役であるというようなことなんです。他のユーザーと差別化されたサイト上の少し違った役割を託された人を作れば、寝ずにアクセスしてくれるんですよね。完全にアカウントフリーみたいな匿名性電子掲示板だと成立しないモデルですけど、ネット人格の同一性、継続性がある場では、ネットの上でハンドルネームであっても○○さんとして認知されることがステータスになり、実際の報酬よりも生きるんですね。

そういう人はネット上で自己実現することに満足感を得ることができる。ネットの中での自己実現と現実のものはかけ離れていて全然構わないんです。安部内閣時代に言っていた再チャレンジじゃないですが、ネットの自分にはこういう価値がある、という安心感は、現実社会の厳しさの中での一つのセーフティネットになるかもしれない。そんなこともできるのがインターネットという新たな世界なわけですから。NIFTY時代はシスオペ、議長、そういうある程度の役割を与えているということが、実際にある種の報酬となっていたわけですから。

やり方は多様にあると思いますが、何らかのステータスを参加者の中誰かに与えて、その人が新たなユーザーの指南役、教育者になって循環するようなシステムが必要なんじゃないですか。コミュニティサイトの中でそうしたおせっかいを焼く人が増えることには意味があると思います。

—魔法のiらんどではユーザーサポート掲示板というコーナーがあって、有志のユーザーがユーザーの質問に答えるサポート掲示板がある。運営側がそのページのウオッチだけしてボランティアの回答者の自治に任せています。こういった仕組みはかなり面白いと思いますが、限られた人しか活用しないですね。またこの仕組みを真似するところはあまりないですね。

基本的に大多数のユーザーは楽なほうがいいんですね。今の時代は全般的にそうですが、関わらなくて済めば関わらない。ネットの中でおせっかいなコミュニケーションをそんなにしたくないんです。昔はそういう人たちがリードオンリーメンバーになって人の発言を読んでいるだけになり、アクティブにやり取りする人々との棲み分けができていた。でも今は、場の多様性が確保されていますから、わざわざリードオンリーメンバーになってそのコミュニティにとどまらなくてもいい。それよりももっと閉じた場の中でコミュニケーションがとれればいい。他の選択肢がたくさんあるわけですよね。そうするとユーザーがそういう仕組みを使わなくなっているのはわかります。

だから、そんな風に楽なコミュニケーションに逃げないように、一段手前に学校的なもの、ネット上でネット社会というものについて学んでいく義務教育的なものが必要だと思います。現実社会の中で自己実現を図ろうと思えばある程度、社会について知っておくべきことがあるわけです。同じようにネット上でも、ネットの中にどういう系統のサイトがあるのか、サイトごとの考え方や構造、社会のメカニズム、システムなどを知る機会があっていい。現実社会では多様な場を学んでキャリアデザインしろって今、やっているじゃないですか。ネット上での自分のキャリアデザインみたいなものがあってもいいじゃないですか。

そうなるとインターネットを免許制にしろという話の方が私にとっては親和性が高いんですよ。ただ、それが○×式で回答するようなものでは意味がない。1年、半年でガラッと変わっていくネットの状況を先輩たちと話をする中で学んでいく。そして、ユーザーがある程度、理解していかないとネットの奥深く中に入っていけない。逆にそこを乗り越えられれば10歳でも20歳でも15歳でもいい。そういう感じでしょうか。

—セカンドライフにそういう島がありましたよね?

セカンドライフの話になってしまうと旗色が悪いですね(笑)。

ただ、自分たちはネットの住民なんだという視点に立って、ネット社会を良くするためにどういうユーザーを現実社会からひっぱってこようかという視点があってもいいんじゃないでしょうか。現実社会からネットを見るんじゃなく、ネット社会の中から、現実社会の人々を見る、という感じです。

現実とネット社会の議論 内政干渉させない

—今までのお話を伺っていると、先生のお考えは、ネットと現実の境がなくなるというお話ではなく、より分離した方が良いということなんですね。現実社会の人もネットの中に入って議論しましょうよということかと。

「現実社会の人は内政干渉するな」といことです。ただ、そこまで偉そうなことを言うならば、コミュニティサイトのあり方は多様化する必要があるでしょう。井戸端会議的なものからネットの事全体を議論していきましょうというような、将来、議会的なものになりうるものまで、様々なセグメントのコミュニティサイトが必要になります。ただ注意しなければいけないのは、まじめに議論するところが素晴らしくて、他がダメだという話ではなくて、議員になってそういうところで議論する人もいれば、井戸端会議する人もいる。そういう多様性は重要だと思います。その上でそうした議論の場が重層的に構築されてそれぞれがそれぞれにあった運営をされているというレベルまで成熟しないと、リアル社会の人に「内政干渉するな」とは言えないですね。

ただ、そうした運営のあり方をどのように作っていけるかが大切ですよね。このコミュニティは、こういう考え、管理の方法で運営していますというサイトのポリシーが明確になっていることと、それを支えていく管理者の存在が重要になってきますね。特に管理者は一人で何かをしているのではなく、多様な立場の人材がコミュニティを管理、あるいはファシリテートしているんだよってことが、きちんとユーザーに伝わっていくことが大切だと思います。それが提示された上で、ユーザー側がどういうコミュニケーションなりコミュニティをその場で期待できるのかをきちんと判断できることが大切です。

入っていって、登録するかどうか、やってみて初めて状況が見えてくるのではなく、自分がコミュニケーションとりたい、自分はつぶやきたいと思った時にネットのどの場で行っていくと自分に合ったものに出会えるのか、それがある程度最初に分かるようにコミュニティの構造というものを最初に示されてほしいと思います。そういうコミュニティには構造の違いがあるんだよということをそもそも人々に分かってもらわなければいけない。

たとえば同じ匿名でも匿名性には5つの段階があると、私は言っているんですけど、全く名乗らないケース、匿名でハンドルネーム等は名乗るけど、人格の同一性はシステムが保障していないから、システムが担保しているケース、実名を人質にとっており、それがクレジットカード番号、住所等で確認されているケース、されていないケースと分けている。匿名性といっても実は段階があってそれぞれリスクが違うわけですよ。じゃあ、ユーザーはどのリスクをとれば、どういうコミュニケーションができるかを最初に知らされるべきだし、そうしたことが基礎知識として位置づいていくべきなんです。

—そういうことをコミュニティサイト側あるいは管理者も学ばなければならないと思いますが、体系的に学ぶ場がないんじゃないかと感じているんです。

横のつながりが必要でしょうね。コミュニティサイトを作っている人たちの間で、自分たちがやっていることは実は、金儲けではなく、現実社会にいる人々を、ネットという新しい社会の一員になってもらう仕事をしている、言うなればそうした社会の変革をする一翼を担っているんだという意識を持った上で、お互いに切磋琢磨できるような横のつながりが必要でしょう。他のコミュニティサイトはライバルだけど共有するべきものもある。そこら辺の仲間意識ですね。コミュニティサイトを提供する人は、ネットで新しい場、価値を生み出す開拓者であるということはぜひ共有してもらいたい。今、この協議会なんかは一つの役割を担うことになると思うんですけれど。

—そうですね、ぜひ努力を続けたいと考えています。先生のお話のように、現実とネットを切り離すとどんな風になっていくのでしょうかね?企業はネットとリアルの場、両方に存在するわけですよね。そのあたりはどうなっていくのかなと。

私なんかはこの業界ではおじいちゃんになっちゃうわけですよね。マイコンブームの頃からのユーザーなわけで、ネット的なもののキャリアが30年ありますからね。そういう意味では30年前の視点から逃れきっていない。今こそあの時代の理想を取り戻す時だ、とか言っている訳ですよ。やっぱりおじいちゃんです。だから、現実とネットとをどうしても切り離して、ネット上に新しいユートピアを、という方向になってしまう。そこは、まあ、新しい人が新しい視点でどんどん議論をしてもらいたい。そういう議論をする場を作るべきだと思います。

ボランティアの精神 ~スペシャリスト養成~

—社会のありかたや生き方の違いというか、たとえばアメリカはボランタリーな世界が前提にあって、企業がどんなにお金儲けをしても、かならず社会貢献するというような文化がありますが、それが日本に育っていないのでしょうか?

どっちかというとそっちの話のほうが私の専門です(笑)。

ただ、今のお話に関しては若干の異論があるんです。現実問題として、アメリカと日本は違うんですね。ボランティアの行動率なんかも、大きな差が出てくる。寄付額などは1世帯あたり30倍違います。その違いはどこにあるんだと分析すると、文化的背景であったり、開拓者精神であったり、宗教的なバックボーンとかよく言われるんですけれど、アメリカで何回か調査して、突き詰めて聞いていくと、非常に単純な話で、アメリカ人は「頼む」ことに躊躇しないんですよね。お願いをきっちりするんですよ。同じことを日本のNPOでも聞いてみると、寄付を募るためのチラシ、箱を作っても、寄付のお願いを人に直接言えない日本人ということが見えてきます。

ボランティアもそうです。「来週、ここでこういう事をやりますから手伝ってくれませんか?」と言えない。ここが一番明確な違いなんです。そういう風に考えると、人は頼まれればやるんです。ボランティアをしてみたいと思いますか、という世論調査では日本でもアメリカと遜色のない6,7割の数字が出てくる。やらないという理由の上位に挙がってくるのは「参加したいと思っているが機会がない」などです。要は、誰もお願いしてくれないから、機会がないということなんですよね。逆に、その一歩さえあれば、日本でも社会が変わっていく可能性があるというのが私の考え方です。

特にネットワークはもともと非常にボランティアに近いです。いまだにインターネットコミュニケーションの中にボランタリーなアソシエーションといった幻想を持っている人もいるし、ネットで他者と関わっていこうとすると、そういうアクティブな意識を持っている人たちが集まってくる。そういう人たちに一言呼びかけて、コミュニティサイトの中で、新米の人たちをナビゲーションしていく。募集していますとHPで告知するというよりは、アクティブに活動しているユーザーにダイレクトにコミュニケーションとっていく。そうするとやりたいと考えている気持ちを引き出せる可能性を広げられますね。企業でも同じことが出来ると思います。コミュニティサイト運営側も日々の運営、会社の問題もあるでしょうけど、一緒にやりましょうよと手を引っ張ってしまえば、出てきて下さる方々はいっぱいいる可能性がある。

—運営側から声をかけることが難しかったり面倒だと感じて、やれないケースもあります。力量が必要ですからね。

ただ、これだけTwitter、SNSなどが流行って、個人と個人のつながりを促進する環境は整っているわけなので、それをやれる環境は整ってしまっているはずですよね。

まったく視点を変えてしまって、リアルな人にアメとしてネットコミュニケーションスペシャリストは実はおいしい商売なんだとしてしまうというのも有効な手段なんじゃないですか。本当はコミュニティサイトでも、どういうコミュニティのデザインをするのかという議論手探りでみんなやっている訳ですけれど、そこにスペシャリストのような人がコンサルに入っていくという形は作れないでしょうか。あるいはスタッフの一人にそういう資格を持っていないとコミュニティサイトは作れない、という形でもよいと思います。ソフト的なネット運営のノウハウを学び、経験した人をきちんと評価し、スペシャリストとして位置付ける環境作りですね。そして、そうした人材にには雇用や商売の場があると認識してもらう。実際に食べられるまでかどうか分かりませんけど、企業としては、その人を一人雇えば信用にもなる、という環境づくりですね。

今だって情報セキュリティの認証をもっていればという事がありますよね。外部のサイバーパトロールに頼むだけではなく、構築の部分から普段の運営、ベーシックな部分をどう運営するかの部分に関して、主体的動けるようなスペシャリストの資格を提案していって、そうした資格がコミュニティサイトに必要なんだとしてしまうと一般社会の方が納得し易いですし、どのコミュニティサイトにとっても有益な話になっていきます。

—いつも言ってることなんですが、コミュニケーションデザインの学問分野がないんです。それを新しく作らなければいけない時期と考えているんですね。現状でも、企業の中にいればスペシャリストとしてノウハウは積み重なってきますが、社内の中でもその価値が認められにくいですね。特に資格とかがあるわけではないので一般の人にはもっと分かりにくいと思います。今後、仕組み自体を作っていくことになるでしょうね。

人材は、たくさん転がっているんですよ。90年代にネットコミュニケーションで活躍したような人々っていうのが、今、単なる1ユーザーになっていて、そういう方々に、ネットやケータイインターネットの場でもう一回活躍してもらうっても良いなぁって思うんです。彼ら自身も今のネットコミュニケーションを見れば新しい知恵を出してくれるかもしれませんし。これも日々、刻々と変わっていく世界ですから、そんなに体系化された形にしなくても、毎年毎年考え方、カリキュラム、基本的な情報をこれまでの経験治験を含めて最大公約数的なところまで落として、やりながら作っていくとようにすればいいのではないでしょうか。

—コミュニティ管理者がどこで学ぶか、これから大変重要ですよね。コミュニティサイト運営のスペシャリスト養成講座みたいなものが必要ですね。要するに食品管理の資格みたいな感じで、管理側に最低一人は必要とするとかですね。

ネットは最後のフロンティア

—それでは最後にコミュニティサイトのあるべき姿、メッセージなどをお聞かせいただければ。

コミュニティサイトのあるべき姿の一番の基本は、どんなバックグラウンドを持った人も対等にコミュニケーションを取れることで、それがネットの良さが生きるということなんだと思います。繰り返しになりますけど、年齢、性別、収入、職業で切るという議論ではない。おじいちゃんでも子どもでも同じ土俵の上で一緒に仲良くできること、議論もできるというのがインターネット上にある場である以上、必要な要素だと思われるんですね。現実社会で子どもだからといってコミュニティサイトにアクセスしてはいけないという議論ではないんです。

大切なのは、サイトの持つメリット、リスク、ネットの理想と現実と問題点を正しく知って、一人のネットコミュニティの成員として成熟さえすればいい。

ただ、そうした成熟のための教育は現実社会、学校のような場でやるのではない。リアルな場の学校で、先生方が適切なことを教えられる状況が残念ながらない。それは先生方の教える能力のなさが問題なのではなくて、純粋にネットコミュニケーションがあまりにも急速に変化しているからです。ネットという社会は、最初のビックバンの後、急速な変化を続けている。ネットはそうした変化の中にあって決して安定しているわけではないと理解している人々がそういう教育を担うべきだと思います。安定している状況ではないから危ない、ダメという議論は意味がなくて、安定している状況にないけれど、リアルタイムでそのことをよく分かっている人々が、新しく入ってきた人々をナビゲートしていく、そういう人材をネット側が用意すべきで、それがボランタリーに出来ればベスト。ボランタリーに出来る状態にない場合にはサイト側が保障するべきでしょう。

サイト側がどういうコミュニケーションを目指しているのかというのを最初に明らかに示して欲しい。NPOがミッションステートメントを出すのと同じようなことをやらなきゃいけない。その前には議論が必要です。そこを明確にできるということが大前提にあれば、その上で管理の厳しさみたいなものは中で分かれていくべきですね。

黎明期の2ちゃんねるはミッションステートメントが明確にありましたよね。嘘を嘘と見抜けない人は掲示板を使うのは難しい、ってことを出したのは素晴らしかったと思います。要はリスキーな場がリスキーであるときちんと看板をぶら下げることが大切です。それがあれば、安全な場もリスキーな場も重層的に存在して構わないと思います。

出会い系に特化したサイトがあってもしかるべしなんです。そこをただ、明確にすればいいのです。それさえ出来ていれば、コミュニティサイトというものはこうあるべきと規定する必要がなくて、今はビックバン直後ですから、みなさんがあり方についてどんどん議論すべきだと思ってますね。
そういう意味では、保護者、学校側にいいたいのは「ネット=危ない世界」と前提に考えないでいただきたいと。新しい国が立ち上がって政情が不安定な国に旅行に行くかどうかと同じ話で、その国が悪いわけではないんですね。ネットは混乱の中にあって、混乱の中にある楽しさ、メリットがある。一方で、そうした混乱の中でどのような自分の身を守るすべがあるのかを考え、自分がそうした混乱の世界に移民をすることでどういうメリットが得られるか、本人自身が自覚できているかどうか、自覚させるためにネットでどのようなコンテンツを読むか、そういうことが必要なのです。そのナビゲーションをすれば先生、保護者の役割を果たすことになるんだということを是非分かって頂きたい。

「ネットは最後のフロンティア」ですから、火星にもしばらく行けないですし、5、10、15年経ったら、ネットでは別の言語でしゃべっているかもしれません。すでにネットにはたくさんの隠語が出てきていますからね。そんな視点をもって議論されるべきじゃないでしょうか。新しい社会作りの一翼を担っているという視点が重要です。研究者も、そういう大風呂敷をきちんと広げてビジョンを示したり、新たなインターネットの安心を形成するための仕組みづくりの提案をしていってほしいですね。対症療法的なものではなく。

—先生のゼミの生徒さんたちの進路はどういった分野ですか?

うちの学科の学生は情報系に関心ある学生は多いですが、基本的には他の学部と比べて進路に偏りはないですね。

—先生の教えを受けた人がネット企業に勤めてくれるといいですね。

私がこんな話をしはじめると、みんな昔話始めたよという雰囲気になりますけど...(笑)。

—学生さんたちの印象について伺いたいです。

ちょっと不安...(笑)。やはりネット環境があることが当たり前なんですよね。当たり前すぎてネットのもたらす影響を想像する機会がないわけです。

ニコ動でコメント付けてということが、実は恐ろしくすごいことであり、それが短期間にできあがり、普及したことの重大性に気づいていないんです。それに至るまでの急速な進化が今後も続いていって、社会に大きな影響を与えていっているということを想像しきれていない。

気づいていないということが、かえって私たちと違った新しい発想を生むかもしれないのですが...。ただ、うちの学科にくる学生としてはすこし物足りないなとも感じます。「社会を変える」ということ、10年くらい前のSFCの学生とかはそういう機会を発見したいという野心をもった学生が多かったように思いますが。今は野心を持った学生が少ないです。

彼らにはネットが当たり前である強みを生かして、ネットに20年、30年使っている私たちのようなネット社会のおじいちゃんおばあちゃんたちが思いつかないようなものを作ってもらいたいと思いますね。

—ありがとうございました。

アーカイブ

ページトップへ